茉莉花館 ― Jasmine Heights ―  第二章
















       


 頭が割れたのだから、動けるにしても動いてはいけない。
 右腕は肩口から指先まで炎に炙られ赤裸なのだから、早く水に浸けなければならない。
 どうだ。俺もなかなか捨てたものじゃないだろう。あれだけの目に遭いながら、ちっとも正気を失っていないじゃないか――そう自分に言い聞かせながら、春樹は地獄と化した東京市中を、駿河台から白金に向かって、ひたすら歩き続けていた。
 まだ燃え盛る道筋も、瓦礫の山も横転した市電も、累々と横たわる死骸も叫び回る人々も、春樹の目には映っていなかった。
 休むのは家に着いてからでいい。すでに痛みを感じない腕など、絹枝に水で冷やしてもらえば、じきに治ってしまうだろう。
 その家が、果たして無事に残っているのか――そんな心配も、自分の後頭部が骨まで割れていると気づいた時点で、意識から放擲していた。
 やがて、火災も倒壊も免れた幸運な街角にさまよいこんだとき、歩く死骸のような春樹を気にかけた人々が、幾たびか押しとどめ手当を勧めたが、
「いえ、大丈夫。平気です。歩いて帰れますから」
 呂律の回らないくぐもった声でそう応えているらしい春樹の、虚ろな瞳と頭の傷を見ると、人々はみな痛々しげな顔になり、すんなり道を空けてくれた。これはどうしてもじきに歩かない死骸になる、そう見なしたのである。ならば少しでも気の済むようにさせてやったほうが、功徳というものだ。
 そうして二時間も過ぎたろうか、頭骨の裂け目から外気に晒される脳髄が、ほとんどの活動を停止してからも、まだ春樹の体だけは、たゆたうように歩みを続けていた。
 しかし夕刻、白金の瑞聖寺の路地前にさしかかった頃、ついに体内の不随意筋までが動きを止め、春樹は、どう、と前のめりに地に伏した。駿河台からここまでの道筋、一歩ごとに垂れ流し続けてきた魂の、最後の一滴が滴り終えようとしていたのである。
 地面に顔を打ちつけたはずみか、おぼろげながら意識が戻り、春樹は芋虫のように蠢くと、仰向けになって瞼を開いた。
 屋根瓦を斑に落としながらも、ふだんと同じ佇まいで続いている家並みが見えた。炎の赤に似ていながら、限りなく懐かしい夕焼けの空の下である。
「間宮さん! 間宮さん!」
 そんな声も聞こえた。
 覗きこんでいる黒い影は、顔見知りの男らしい。
「……家は、無事でしょうか」
 あんがい、しっかりした声が出た。
 黒い影が、力づけるように叫んだ。
「きっと無事だ! このあたりは、さほどひどくない! 寺の宝殿だって崩れていません!」
 良かった。ならば、絹枝も無事だろう――。
 春樹は瞼を閉じて、力なく微笑した。
 でも、ああ絹枝、俺はとうとう君を幸せにしてやれなかったよ――。
「あなた! あなた!」
 どこからか、絹枝の声がした。
 見初めた頃の風鈴のような声が、年々歳々、濡れるように艶を増していくのは、奇妙だが、なかなか楽しいものだ。
 ジャスミンの香りが鼻をくすぐる。
 ――おや? 俺は、もう家に着いていたのかな?
 ゴムのように粘る瞼をかろうじて開くと、霞んだ視界に、白いセーターの襟元が浮かんだ。
「あなた!」
 しかし襟の上の顔は、慎治がこれまで見ながらも見まいとしてきた、路傍に積み重なる死骸の肌や慎治自身の右腕のように、赤黒く焼け爛れていた。
「あなた……」
 艶めかしい囁きとともに、絹枝の下唇が崩れ落ちた。

          *

 絶叫して、春樹は跳ね起きた。
 冷たい汗が背中まで濡らしているのを感じながら、ベッドに半身を起こしたまま、懸命に息を静める。
 カーテンを引き忘れて眠ってしまったらしく、南に面したデスクの上の窓に、乾いた青空と東京タワーが見えた。すでに朝を過ぎた光である。
 慎治は片手で体を支え、片手で瞼を押さえ、ゆるゆると顔を揉みほぐしながら、爪先でベッドの足元のスリッパを探った。
 銀座の高層ホテルだけに、ビジネスルームも広く、上品に整っている。当然それなりに料金も張るが、今の慎治には、円滑に活動するために、名の通った拠点が必要だった。
 ドアの横、全身が写る姿見の前に立つ。
 連日の東奔西走に、頬の肉がさらに落ちたようだ。最前の悪夢のためか、顔色も良くない。しかし、すでに意識は透徹していた。
『また、あの夢を見てしまいましたね』
『……ああ。PTSD、と言うのだったか』
 館で過ごした数日のうちに、慎治と春樹は、鏡を通して無言の会話を交わす要領を覚えていた。物理的な鏡に限らず、想像上の鏡でもいい。
『面白い世の中になったよ。己も計れぬ心の襞に、ひとつひとつ名前をつけてくれる。しかし名前がついたからといって、どうなるものでもないがな』
『はい』
『昔は、何もかもが「神経衰弱」のひとことで済んだ。そのほうが楽だった気もする』
 会話時には、慎治が自然、敬語になる。この世を去ったとき、春樹は二十七歳だった。生まれ月の関係で実質四年程度の差だが、育った時代やキャリアが違う。慎治にとって、春樹は三十代半ばの風格があった。
 もっとも、あの日からのふたりは、厳密に言えば『ひとり』である。多重人格のように、ひとつの肉体内で複数の人格が交代するわけではない。あくまでひとつの意識が、ふたつの記憶を同時に持っているのである。
 だから、その鏡越しの会話は、集団行動の苦手な慎治が学科のレポートや江戸読本に関する卒論を作成するうちに身につけた、ひとりきりのブレインストーミングに似ていた。自室に閉じこもり、しかも客観的な正論を導き出すには、互いに拘泥しあわない複数の視点を想定し、自由に論議させるに限る。
 そしてその思考法は、早々に文学を見限って実学に進み、実業界に身を投じた春樹にとっても、合理的な手法だった。研究者であれ実業家であれ、天才と呼ばれる先人は、ほぼ例外なく脳内会議の達人である。ひとつの視点での自問自答だけで真理は得られないし、確固たる計画も構築できない。優れた人物ほど多くの視点を持ち、多くの論者を頭に飼っている。
『しかし、すまない』
 鏡の中の春樹が詫びた。
『君には、いつもいやな思いをさせる』
 記憶が細部まで蘇るにつれて、春樹はたびたび同じ夢を見た。実際にこときれたのがどこであったか定かではないが、今は確かに館に帰還し、愛妻との再会も果たしている。しかし夢の中では、館にさえたどりつけない。健やかな絹枝に触れることもできない。あの震災の日、ついに抱擁できなかった無念が、そんな夢を見させるのだろうか。
『いいんですよ』
 慎治は、むしろ申し訳なく思った。
 あちらに戻れば、慎治は多く鏡の中の立場である。もしも慎治の記憶や肉体がなかったら、春樹と絹枝は純粋に同じ時代の魂として、心《しん》から蜜月を取り戻せるのかもしれない。なまじ慎治という肉体や記憶があるからこそ、なにかと事が面倒になっているのだ。
 しかし、慎治が単なる媒介でないことも明らかだった。生身の肉体がなければ、春樹はあちら側で何の行動も起こせなかったし、こちら側で慎治が動かなければ、春樹や絹枝の本懐も遂げられない。慎治が春樹と同じ存在として、夜ごと絹枝と熱い愛を交わせることが、その大いなる代償なのかもしれなかった。それほど絹枝と亜由美は似ていた。
 ともあれ同じ体内にふたつの記憶を持っていると、なかなか骨が折れる。徐々に混然と融合してゆく感覚はあるのだが、あくまで途上であり、あちらの世界で春樹として行動する間に慎治の困惑が紛れこんで立ち往生することもあれば、現在のようにこちらの世界で行動する間、春樹の驚愕が慎治の判断を遅れさせたりもしがちだ。摩天楼の谷間、車列に囲まれて群衆が行き交う銀座のスクランブル交差点と、開けた空の下、ほとんど二三階建ての建物の間を市電やボンネット車がのどかに行き交い、和服の男女や洋装のモボ・モガが和やかにすれ違う銀座では、一歩進むにさえ心得が違う。
 悪夢の残滓を拭うためシャワーを浴びてから、ホテルのカフェで遅い朝食を摂り、部屋に戻った慎治はデスクのノートパソコンを起動した。
 先日も出向いた老舗の宝石貴金属商に、確認のメールを入れる。
 ノートには、自室のデスクトップから外した内蔵ハードディスクも、USB変換ケーブルを介して繋がっている。こうした手段も、春樹では駆使できない。
『あの店は、本当に信頼できるのか?』
 春樹が訊ねた。いや、これは自問したというのが正しいだろう。
 若くして相場で一財産築いた経験もある、いわば山師に近い春樹は、老舗の看板など鵜呑みにできない。本来なら、取引前に月単位で調査するところだ。
『大丈夫でしょう。公認会計士のお墨付きですから』
 慎治は鷹揚にかまえていた。
 急遽、全資産をいったん現金化するため、慎治は旧知の税務会計事務所に諸事を任せていた。何年か前に手を切ったときは嫌な顔をしていたが、今回は一度きりの依頼とはいえ手数料も莫大だから、少なくとも仕事が終わるまでは、懸命にこちらの御機嫌を伺い続けるはずだ。
 待ちかまえていたように、宝石商から返信が届いた。条件どおりの品物を揃えたので来店を乞う、そんな内容が、美辞麗句とともに綴られている。
 慎治はうなずくと、スーツに着替えはじめた。
 確実な換金性から見れば、本当は純金が望ましい。あちら側との時代差が生じ、怪しまれる恐れもない。しかし慎治が手持ちで運べる金塊など、高が知れている。やむをえず、大半は宝飾品や宝石類に換えざるをえなかった。それも、時代的に矛盾しない加工品に限られる。かなり困難な条件だったが、総額五億に及ぶ商談のこと、正気の業者なら即座にバイヤーたちを総動員するだろう。まして依頼の当日に、前金で二億を振り込んでいる。
 もっとも、その老舗商社も、ただ金だけで動いているわけではなかった。客筋によってはマネーロンダリングの恐れもある。冷や飯喰らい扱いで育った大正の旧家の四男坊・春樹や、寡黙な本の虫だった平成の末裔・慎治の知らないところで、間宮家という家名自体が、大きく作用していたのである。たとえば調達された品物の中には、本を正せば春樹の兄嫁たちが愛玩していた翡翠細工の飾箱や、そこに収まっていた多数の宝飾品も含まれている。
 スーツやネクタイに慣れない慎治の手先を、春樹の記憶が自然に動かす。ふたりともエルメネジルド・ゼニアという服飾ブランドに聞き覚えはなかったが、既製品でも一式四十万、説得力は充分だろう。
 今にして思えば、館からいったん戻ったあの日、気の急くままに、あちらでの正装で中央図書館を歩き回ってしまったのは失策だった。ふたつの記憶を極力齟齬なく重ね合わせ、また今後、あちら側での計画を具体化するために必要な階梯だったのだが、もっと目立たずに済ませる手もあった。しかし、古い正装でいるのが当然な春樹も、衣類にはまったく無頓着な慎治も、その夜、紳士服店の販売嬢に熱い視線で絶賛されるまで、違和感を悟れなかったのである。
 まあ、いい。もともと逃げ隠れしようと思っているわけではない。
 亜由美たちに見つかれば、なんらかの形で帰途を妨げられるのは目に見えているが、慎治はただ、自分の道を望ましい方向に進もうとしているだけだ。それが前に向かっているにしろ、後ろに向かっているにしろ。
『さて、行きましょうか』
 いざ本番となると、慎治はさすがに緊張してきた。
『そう気負わなくとも大丈夫さ』
 今度は春樹が泰然と返した。
『合法的な買い物なら、いつの世も客がいちばん偉い』
 ふたつの記憶が、うなずきあった。
 勇介たちが慎治の失踪に気づくのは、さらに三日後のことである。


       


 ――この人は、本当に私と同じところを歩いているのだろうか。
 勇介の手をきつく握って、濃霧の中を足探りに進みながら、亜由美は漠然と、そんなことを思っていた。
 さきほどジャスミンの香りに包まれ、ほどなく、その香りそのものであるかのような濃密な霧に包まれ、
「霧……」
 そうつぶやいたとき、勇介は、確かに一瞬とまどうような視線を亜由美に向けた。その目には、先の香りについて言葉を返したときと、ほとんど同じ懐疑の色が浮かんでいた。
 いや。別に、感じないけど――。
 霧に怯えたというより、ふたたびその言葉を聞くのが恐くて、亜由美は曽根巡査や朝倉に気兼ねしながらも、思わず勇介の手にすがった。
 すると勇介の怪訝な視線は、急に亜由美から周囲の景色に逸れ、
「……珍しいな。このあたりで、こんなの」
 彼にとっての霧は、明らかに、そのときはじめて生じたのである。
 のみならず、亜由美にとっては自分の膝も見通せないほどの濃霧の中、勇介は亜由美の手を引いて、躊躇なく先に進みはじめた。
「……ねえ」
「ん?」
「足元、見えてる?」
「ああ、なんとかな」
 そろそろコンタクトが必要な亜由美とは違い、勇介の視力は頑健な体にふさわしく、裸眼で一.五を越える。しかし、目の良さと霧の濃さは無関係だ。
 本当に、今、私と同じ世界を見ているのだろうか――。
 懐疑を深める亜由美には、もはや手を繋いでいる勇介の顔すら判然としない。それでも勇介は、しきりにあたりを見回しながら、着実に歩を進めている。
「おかしいな。部長たち、どこに行っちまったんだろう」
 勇介は、大声で朝倉と曽根巡査を呼んだ。
 返事はない。
 白い霧が音まで遮ってしまったように、ただ静寂だけがたちこめている。
 やがて、
「本当だ。ジャスミンの匂いがする……」
 つぶやくと同時に、勇介の歩みが止まった。
「だめだ。もう、何も見えない」
 本来なら、さらに途方にくれるはずのところを、亜由美はなにか安堵したような気持ちで、あらためて勇介の骨太い指を握りなおした。
 ほどなく、霧が流れはじめた。
 ミルクの中にいるような乳白色の世界が、左右の空に向かってゆったりと波を描きながら、しだいに形ある景色をとりもどしてゆく。
 と、目前、霧の晴れた冬の陽射しの下に、白い館が現れた。
 その館の、来客を誘《いざな》うように大きく開かれた瀟洒な門の前に、ふたりは立ち止まっているのだった。
「――あの家だわ」
 亜由美は、魅せられたように二階の出窓を見上げた。
 愛らしい、空色の大きなテディベアが、無邪気にこちらを見下ろしている。
 勇介は当惑しながら、開かれた門の横に周り、銘板を検めた。
 流麗な装飾体の浮文字が、磨き上げられた骨董の光沢を放っている。
 Jasmine Heights――。
「まさか……」
 あの絵に描かれた館が現存したとしても、霊園の中にあるはずがない。朝倉たちを見失ってから数分、距離的には霊園の東に出てもおかしくないが、外周は車道なのである。足探りに渡れるはずがない。
 周囲を確かめると、左右はいつのまにか雑木林になっており、車道というより馬車道のような煉瓦道が、右手奥の暗い林間に延びていた。そして背後には、古びた黒い板壁に挟まれるようにして、細い坂の石段が胸突き上がりに続いている。
「なんなんだ、ここは……」
 不測の事態に無類の順応性を誇る勇介も、さすがに絶句した。
 亜由美も、その声を聞いて我に返り、あらためて不安にかられた。
 勇介が、ふと思いついて携帯を取り出すと、亜由美も自分の携帯を確認した。
 期待していたわけではないが、案の定、ふたつとも圏外である。
 握り合う手から亜由美の怯えが伝わり、勇介は、懸命に本来の克己心を鼓舞した。
「――行ってみよう」
 勇介は先を促した。
 いつまでも立ち止まってはいられない。ならば薄暗い樹林や狭苦しい坂に退くよりは、明るい場所に進むほうがいい。
 亜由美も、こくりとうなずいた。
 見知らぬ林や、下りてきたはずのない坂よりも、昔どこかにあったはずの館のほうが、遙かに身近で確かな存在に思えた。

          *

 屋内の気配を窺いながら、ジャスミンの香りに包まれた館の側面を進むふたりは、自分たちのたどる石畳が、半月前に慎治がたどった同じ石畳であることを知らない。また、陽射しに輝く白い館が、あの日、ほとんど廃墟の様相を呈していたことも、無論知らない。
 しかし館そのものは、おのれの外階段に向かって足元の横庭を進んでくる人間たちが、少なくともそのうちのひとりは確実に、館にとって望ましい者であることを、はじめから悟っていた。だからこそ、横庭には病葉のひとひらさえ残っていない。誰もが心やすく奥への道をたどれるよう、入念に掃き清められている。もし今が、こちら側の冬でなかったら、寂しい花壇や並木の枝も、心づくしの花々で飾っていただろう。
 ならば、なぜ慎治には、あのとき腐敗したような廃屋の姿を晒したのか。これまでも、なにかのはずみに――おそらくは極度の厭世、あるいは当人も気づかぬ花性の波長によって――館の庭にさまよいこんだ男は幾人《いくたり》かいたが、皆、あの姿に辟易して、結句引き返してしまったのである。
 館にとって慎治は、その姿や血脈の匂いに大いなる好もしさを抱けばこそ、ぎりぎりまで試さねばならない相手だった。館の脳髄ともいえるあの白い部屋で、数十年間ただひたすら待ち続けた孤独な存在のために、ふさわしい主人であることを見極めねばならなかった。その存在は、絹枝という女であると同時に、館自身の一部でもある。内に受け入れる男は、慎重に選ばねばならない。館は『貞淑』ということに多大な価値を認める、カソリック系の古い育ちであった。
 そもそもの出自は、前々世紀初頭のスペイン、貴族邸の敷地の湖畔に建てられた別邸である。広大な敷地内をくまなく逍遥するには、馬を使っても二昼夜ほどかかった。自然、いくつかの別邸が必要になる。いわば館は、妾にすぎなかった。湖の対岸の森深く聳える石造りの城館が、あくまで本妻ということになる。華麗な外貌の本妻とは違い、やや慎ましい姿に生まれてしまったためか、とうとう正式な名前さえ与えられず、ただ『una residencia de lakeside(湖畔の館)』と呼ばれていたが、たとえ妾であれ当主の伴侶である以上、貞淑であらねばならない。日本語の『館』や『屋敷』には性差がないが、スペイン語において、レシデンシアは女性名詞である。
 しかし貴族が栄華を誇れる時代は長く続かず、爾来二百余年にわたる転変のうちに、間宮春樹という、唯一自分に固有の名を与えてくれた男が、館にとっては最も大切な、最後の主だった。その他の誰も、あの甘い香りの可憐な花の名で、自分を呼んでくれるような真心は見せてくれなかった。絹枝が人としての妻、春樹の港であるように、館もまた春樹の港、家としての妻なのである。
 そして今の館は、完璧な港であるがために、さらなる存在を欲していた。

          *

「――住みやすそうなアパートね」
 勇介に続いて、北面奥の階段から二階の通路に上がった亜由美は、清潔な白いドアの列を見渡して、いささか場違いな感想を漏らした。
 勇介は、こんな非常事態でも女は日常的な生活感を優先するのだな、などと内心感心しながら、
「造りはえらく古いけど、手入れは完璧だな。集合住宅ってより、一種の宿泊施設みたいだ」
「そうか。いつか、旧軽だったっけ、こんな感じのペンションがあったわね」
 さしずめ、奥の突きあたりにある別誂えのドアが施設としてのメインルームで、他のドアは個別の宿泊室――確かにそんな風情の建物である。しかし、屋内に人の気配はまったくない。ただジャスミンの香りだけが、どこからか、馥郁と、誘うように流れてくる。
「裏庭に、お花畑でもあるのかしら」
 亜由美の緊張感のなさに呆れつつも、勇介にしたところで、どうこう言える義理ではなかった。実は勇介自身も、情緒的にはほとんど警戒心を抱いていない自分を、先刻から不思議に思っていたのである。警戒しなければならないという理性だけが、かろうじて慎重さを保っている。
 勇介は、手近なドアに顔を寄せた。
 明かり取りの小窓の古風な波硝子は、内側からの光を受けて、漣のように輝いている。たぶん室内に南向きの大窓があり、そこから光がさしこんでいるのだろう。
 軽くノックして、返事がないのを確認してから、淡い琥珀色の真鍮のノブを回してみると、やはり施錠されていた。
 かつて慎治がそうしたように、勇介も、新聞受けらしい細口の金蓋を押し開き、鼻を近づけた。門の銘板と同じように磨きこまれた蓋の隙間から、やや黴臭くはあるもののけして不快ではない、旧家の庭に面した座敷のような、日向臭い生活臭が流れた。しかし、花の香りは強くない。
「やっぱり奥からだな」
 勇介は早々と結論を出し、先に進んだ。
 手を引かれるまま、亜由美も従う。
 最奥の、ひときわ精緻な木彫の施された白い扉の前に立ち、ふたりは深く息を吸いこんだ。ドアは閉ざされているのに、香りの流れが、微風のように頬にそよぐ気さえした。
 返事のないノックののち、勇介はノブを回した。
 今度は鍵がかかっていない。
「――お邪魔します」
 形だけ挨拶しながら、おそるおそるドアを開く。
 ジャスミンの風が、鮮やかに吹き渡った。
 仄暗い北側の光に慣れたふたりの目に、純白のハレーションが生じた。
 反射的に目をすぼめ、瞳孔が絞られるのを待つ。
 室内も外壁同様に白が基調であることは把握できたが、細かい調度などは、正面の壁いっぱいに開け放たれた大窓の陽光の陰となって、定かではない。
 やがて露光の合った窓外の眺望に、ふたりは驚愕した。
 広々とした露台の手摺り越しに、彼方まで続くなだらかな丘陵の、緑の重なりが見えた。地形的には北海道のラベンダー畑あたりにも似ているが、やや湿気をおびた光と風は、明らかに南国のそれである。
「馬鹿な……」
 明媚な風景に見惚れそうになる自分を胸中でどやしつけ、勇介は、今来た通路を見返った。
 館の煉瓦塀の北側には、やはり冬枯れた木立しか見えない。さきほど門前から見渡した限り、南側もほとんど同じ景色のはずだった。
 もはや理性や克己心で対処できる状況ではない。
 本能的に、勇介は踵を返した。しかし瞬時、亜由美の指の感触がないのに気づき、あわてて室内に目を向けた。
 いつの間に離れたものやら、亜由美はすでに室内を抜け、露台の手摺りから身をのりだしている。
 勇介は、部屋に躍りこんだ。
 小綺麗な家具調度を蹴散らしながら猪突のごとく駆け寄ると、亜由美は無我夢中で手を振り回しながら、
「慎治よ! ――慎治! 慎治!」
 自分や勇介や外界に向けて、繰り返し叫んでいる。
 勇介も、その視線の先を追った。
 直下の裏庭は雑木林ではなく、整った芝生と夏草の花壇が、ゆるやかに南に下っていた。その先の柵を越えれば、あとは地平線まで――いや、遠望できる限りの起伏まで、一面にジャスミン畑が広がっている。
 その畑の、かろうじて声の届きそうなあたりで、数人の農夫を従えた白い開襟シャツ姿の慎治が、呆然とこちらを見上げていた。亜由美の声を聞きつけたのだろう、慎治は挙動に窮し、ただ棒立ちになっている。
「慎治……」
 勇介は固唾を飲んだ。
 確かに、あれは慎治に見える。しかし慎治を囲む農夫たちの姿が、なにか違う。被り物から覗く髪や顔色は一見日本人のようだが、野良着の様式がおかしい。いつか韓流ドラマの歴史物で見た、田舎の農夫たちのようだ。
 慎治に再会できた喜びを払拭してしまうほどの、底知れぬ違和感が身内に湧き上がった。
 ここは俺たちの関与するべき世界ではない――。
 しかし亜由美は、
「慎治! 慎治!」
 かん高い声で呼び続けながら、露台の右端、直接裏庭に下りるらしい階段を目ざとく見つけ、躊躇なく駆けだしていた。
「だめだ! 戻れ!」
 狼に追われる子鹿のように、瞬く間に遠ざかる亜由美を、勇介は懸命に追いかけた。階段の踊り場で、曲がりきろうとしていた亜由美の手先をからくも掴まえ、強引に引き戻す。
「ここはまともな場所じゃない!」
 そのまま後も見ずに階段を引き返し、元の部屋に駆けこむ。
 しかし、そこは元の部屋ではなかった。
 同じ館らしい奥行きながら、さきほど駆け抜けたささやかな居間も、蹴散らした白い家具類も姿を消し、館の二階全体を広間にしたような横長の部屋に絨毯が敷き詰められ、その壁際には、豪奢な織物のソファーが幾つも並んでいた。
 だけではない。
 あの入口の白いドアが、周囲の壁にじわじわと侵食され、目の前で消え去りつつある。
「くそ!」
 勇介は歯噛みした。
 彼の気性だと、驚愕も怖気も、度を過ごすと憤怒に変わる。勇介はこの館自体に、明確な怒りを覚えていた。
 なにがなんでも抜け出てやる――。
 広間の中程に階段らしい手摺りを認め、勇介は走った。亜由美も従う気になったらしく、手を引かれるままについてきている。
 黒光りする木階段を、踊り場の美しいステンドグラスに感心する余裕もなく一散に駆け下りると、階下を横切る細い廊下に出た。外から窺った記憶では、やはりありえない構造だ。両側にいくつもの扉が並ぶ廊下の、右手奥は壁だったが、左手奥に玄関らしい扉が見えた。本来そこはあのテディベアの窓の直下、ただの壁面のはずである。しかし勇介は迷わず突進した。階上の扉が消えた以上、階下に出現した扉から出るしかない。
 肩で突き破るように扉を押し開き、前庭に躍り出て――。
 今度こそ、勇介は完全に自失し、その場に立ちすくんだ。
 間違いなくあの庭である。
 敷石も、門柱も柵も、数分前にさまよいこんだときのままである。
 しかし、庭の季節は冬から夏に変わっていた。しかもその先に、石畳の坂はない。残念ながら青山霊園もない。裏手にあった農園の続きすらなく、青空の下、きわめて大時代的な市街地の光景が広がっていた。
 椰子のような南洋の樹木と日本風の松が混在する奇妙な並木の下、門前を行き交う人々のざわめきが、柵越しに流れてくる。
 その会話は、勇介の知る限り、日本語よりも中国語が多かった。西洋人も散見され、キングス・イングリッシュも聞こえれば、フランス語の柔らかい鼻音も聞こえるようだ。
 しかつめらしい軍服の隊列に遠慮しながら、馬の引く荷車が渡ってゆく。
 時代物の自動車が、悠然と通りすぎる。
 そして街路の斜め対面、十字路を隔てた公園のような樹木の彼方には、中央に塔を頂いた建造物が、ひときわ傲然と聳えている。
 その煉瓦造りの建物に、勇介は確かな見覚えがあった。
 ――中華民国総統府?
 現代のニュース映像と、朝倉に聞かされた古いキーワードが、記憶の中で重複する。
 旧、大日本帝国台湾総督府。
 そうか。昔は台北の中心市街にも、広大な農園地帯が隣接して――いるはずがない。
 口を半開きにしたまま立ちつくしている勇介の手から、亜由美の細い指が、そっと離れた。
「――わたくしの家が『まともな場所』かどうか、それは梶尾様の心ひとつですわ」
 すましかえった声で、亜由美がささやいた。
 勇介は、もはや驚愕も怒りも忘れ、ただ呆けたように、その端正な微笑を見入った。
 亜由美は、いつのまに夏服に着替えたのだろう。
 背中のなかばまであった黒髪も、今は、涼しげな断髪になっている。
 その微笑――すっと通った鼻筋の、ちょっと丸みをおびた鼻先だけが蠢いてみえる可憐な微笑は、まぎれもなく亜由美そのものなのだが――。
「でも、やっぱり、お気に召さなかったみたいですわね」
 亜由美は悪戯らしく笑いながら、背中に回していた片手を、ふわりと宙に泳がせた。
 そのたおやかな腕の先には、大ぶりの、黒光りするフライパンが握られていた。
 そうか――。
 勇介の頭の中で、思考が繋がった。
 俺は、あの露台の階段で引き返してから、自分が誰を連れているのか、一度も確認していなかったのだ。あのときつかまえた腕は、もう半袖だったのかもしれない。
 つまり――別人?
 ようやく正気に戻ったのもつかのま、
「ごめんあそばせ」
 小首をかしげるお上品な会釈と、
「えいっ」
 軽やかに風を切る音に続いて、勇介は『目から火が出る』という慣用句を、身をもって納得した。
 火が消えたあとは、ただ暗黒の奈落だった。


       


 夜まで続いた騒動にようやく区切りがつき、朝倉と曽根巡査は、赤坂パークビルにほど近い、半地下のカフェバーのボックス席に腰を落ち着けた。
 TBS本社が目と鼻の先にあり、日本コロムビアなども近いせいか、その小洒落たバーは、深更でもそれらしい人々で満席だった。
 昼、霊園で昏倒している勇介を見つけ、ふたりはすぐに救急車を呼んだ。曽根巡査は救急隊が駆けつけた直後に勤務に戻ったが、朝倉は救急車に同乗し、勇介をパークビルの脳神経外科に運びこんだ。勇介の父親の紹介である。それから今までずっと病院に詰め、朝倉は、ある意味孤軍奮闘していた。
 霊園に至るまでの経緯は、勇介たちの微妙な関係を除いて、警察にも家族にも、おおむね正確に伝えてある。しかしそれ以降は、大幅に脚色せざるを得ない。
「まさかねえ。煙のように現れて、いきなりばったり倒れました、そんな説明するわけにゃいかないしねえ」
「はい。自分も、朝倉さんに釘を刺されたとおりにふるまって正解でした」
 霊園内で勇介や亜由美とはぐれ、探しているうちに、小道で倒れている勇介を発見した――そう口裏を合わせてある。実際には、朝倉と曽根巡査があの小さな館を検分している最中、勇介は、まさにその館と同じ空間から忽然と出現し、ふたりの眼前に倒れこんだのである。
「しかし、梶尾さん――勇介さんの具合は」
 勇介の家族との区別をつけるためか、曽根巡査は名前に言い換えた。
「宵の口には目覚められたと伺いましたが、大丈夫なんでしょうか」
 曽根巡査は、すでに私服に着替えている。朝倉に呼び出されるまでもなく、夕刻、勤務を終えて早々に、自分から連絡を入れた。昼は文字どおりうらなりの瓢箪のようだった顔に、いくぶん血の気が戻って見えるのは、精気が戻ったというより、過労で血圧が上がっているのかもしれない。一般に交番勤務は朝から朝までの二十四時間拘束だが、今日の昼勤は、交代要員の妻が朝方産気づいたため、そちらの区切りが付くまで残業していたのである。
「うん、心配なさそう。結局ただの脳震盪だもん。お医者が言うには、稀に見る立派な頭蓋骨だそうな」
「いえ、お体は大丈夫でも、その――状況説明のほうが」
「うん。人目があるんで長話はできなかったけど、こっそり釘だけは刺しといた」
 その場には勇介の家族だけでなく、いっとき赤坂署の人間もいたはずである。朝倉も相当に無理のある言動をしたのだろうと、曽根巡査は想像した。しかし、それを無理なく相手の度量に納めてしまうのが朝倉の個性であることを、昼からのつきあいを通して曽根巡査も得心している。
「まあ頭を打ったんだから、どんな夢物語を始めても無問題、じゃないや、違うタイプの問題にされるでしょうね」
「それはそうだ。自分も、正直に見たままを報告していたら、今頃は間違いなく精神科送りです」
 曽根巡査は悩ましげにうなずいて、
「それで、亜由美さんの件は……」
「うん。『あの館ではぐれた』――今んとこ、そんだけ」
 曽根巡査は、ぞくりと背中を震わせた。
 ドールハウスのような墓標の内部で、生身の人間が『はぐれる』はずはない。
「あの館……つまり、あの、いわゆる、あの世でしょうか」
 朝倉は少々呆れ顔で、
「あの世たあ、また古いことを言うね。あたしや慎治君じゃあるまいし」
「そうですか?」
「今どきの若いもんなら、そうね、異次元とか異世界、パラレルワールドかな。あのみごとなイリュージョンだと、いっそ、剣と魔法の世界かもしんない」
「あいにく昔から、そういった話は苦手で」
「ハリポタとか、観ない子だった? それとも呪怨とか、SFとか」
「はい。駄目でした。スポーツ物や、普通の学園物なら」
 だから、消えたときもあれほど放心したのだろう。同じ現実主義者の朝倉が、今日の怪異を比較的自然に受け入れられたのは、あくまで仮想作品を通してだが、そうした状況に慣れていたからである。
「なんにせよ、とりあえず勇介さんが無事で良かった」
 曽根巡査が、話を現実に戻した。
「脳震盪なら、安静にしていれば、じきに退院できる」
「大山鳴動して鼠一匹――でも、あくまで『とりあえず』だわね。これから何が始まるやら、解ったもんじゃない。せいぜいゲゲゲっぽく、ユーモアこみで展開してほしいもんだわ。これで貞子や伽椰子に這い出された日にゃ、あたしゃ即行、バックレるかんね。あとは、お巡りさん、よろしく」
 朝倉はカクテルグラスを手にし、からかうように乾杯を促した。
 曽根巡査も、困った顔で、それに応じる。
「でも、勇介君のお父さんって、マジ大物なんだね」
「近々都議選に出馬なさると伺いましたが」
「うん。財務官僚の底力、改めて思い知ったわ。息子を担ぎこむなり病院中大騒ぎで、財前五郎や里見脩二みたいなシブいのが、ぱあぱあ怒鳴りあいながら右往左往してんだもん。こちとら貧民、思わずビビっちまったい」
 もちろん、今だから軽く言えることである。死体のように萎えている勇介に付き添っている間は、ふだんの活気を知っているだけに、朝倉も気が気ではなかった。亜由美の行方もさることながら、やはり目の前の恐れが先になる。
「あたしなんか、頭なんぞ割れそうに痛くたって、マツキヨでいちばん安い薬買って飲むだけだもんなあ」
 曽根巡査が、口元をほころばせた。
「お、やっと笑ったね」
「いえ、勇介さんを抱き上げたときの、朝倉さんの言葉を思い出しまして」
「ありゃ、なんてったっけ」
「『うっわー、でっけーたんこぶ』」
「はっはっは」
 単なる偶然とはいえ、同時に超自然へのコペルニクス的転回を遂げてしまった現実家同士、奇妙な連帯感が生まれていた。
「――なんて、笑ってるバヤイじゃないわな。例のブツ、回収できた?」
「はい」
 曽根巡査はウェストポーチから、ハンカチ包みを取り出した。ふたつの携帯電話が、ことりとテーブルに軽い音を連ねた。一方はワインレッドの洗練されたデザイン、片方は型遅れの黒い実用品である。
「ごめんね、お巡りさんを共犯にしちゃって。夜の墓場、恐くなかった?」
「いえ。これが不思議なもので、かえって暗いほうが落ち着いて行動できるんです。恐怖心より緊張感が勝つというか。夜の幽霊より、白昼に消える人間のほうが、遙かに恐い。商売柄なんでしょうかね」
 大真面目に言うので、朝倉は失笑した。
「赤いほうは、勝手ながら電源を切ってあります。亜由美さんの家族から、着信が溜まっていたので。GPSも黙らせたかった」
「うん。さすがはお巡りさん」
「黒のほうは、電池切れか、壊れているようです。何も表示が出ません」
 最新型の赤に比べ、いかにも古く、ぶ厚い折り畳み型である。
「勇介さんの所持品でしょうか」
「いんや」
 朝倉は、思惑と懐旧の入り交じった顔で、
「こんな骨董品、後生大事に使ってそうな奴、ひとりしか知らんわ」
 制服姿の集う部室、すべてが青々とした陽射しに包まれていた季節を思い浮かべる。
「では、やはり……」
「うん」
 いつまでも続く春はない――そんなことを思いながら、朝倉は、やや苦味の増したカクテルを口に含んだ。
「でも、これってやっぱり証拠隠滅かな」
「今のところは遺失物横領でしょう」
「なんだ、ネコババか」
「まてよ、墓地でも個々の墓標の敷地だと、不法侵入になりますか」
「どのみち軽犯罪軽犯罪」
「もっとも今後の進展によります。状況しだいでは証拠隠滅にも」
「うわ。やっぱり、まずかったかな」
「いえ。自分的には懲戒ものですが、朝倉さんの立場としては、きわめて適切な処置かと」
 警察官らしい表情とは裏腹に、曽根巡査は朝倉の配慮を肯定した。
「現時点では、上も事件性を確信しておりません。勇介さんも、ごく軽傷だったわけですし。ただ、勇介さんの被害や説明がどうあれ、あの父上の存在は大きい。赤坂署としても、なんらかの合理的な結論が必要でしょう。それに、このまま亜由美さんが出てこなければ、当然愛川家からも捜索願が出る。そうなったとき、現場にこのふたつの遺留品があれば、捜査の方向性は、ほとんど決まってしまう」
「うん。――痴情のもつれ、って奴ね」
「はい。当事者同士がどんなに隠していても、周囲に漏れない色恋沙汰など、あったためしがない。警察だって馬鹿ではありません。すぐにその関係を割り出します」
 曽根巡査は、すでに三人の微妙な関係を知っている。ここまで深入りしてしまったのだから、いっそ仲間内に引きこんでしまえと、朝倉が独断で伝えたのである。
「『しのぶれど 色に出でにけり わが恋は』、か」
「はあ」
「知らない? 『ものや思ふと 人の問ふまで』」
「聞いた気はするんですが……すみません」
 警察学校の入試科目には古文もあるはずだが、やはり趣味ではなかったのだろう。
「いや、ごめん。続きをどうぞ」
「はい。つまり、恋人を奪われて自暴自棄になった間宮さんが、いったん失踪したものの、やはり諦めきれずにふたりを襲い、勇介さんを殴打して亜由美さんを連れ去った――どうしても、そうなりますね」
「うーん……いっそ警察に丸投げしちゃうか。なんかめんどいし、わけわからんし」
 朝倉が半分冗談で言うと、
「どこの世界に、あの世まで捜査できる警察がありますか」
 曽根巡査は真顔で窘めた。
「自分だって、こんな事態はいまだに信じられない。目が覚めたら全部夢なのかも知れない。しかし現実なら話は違う。言っちゃなんですが、消えっぱなしならともかく、もし、その慎治さんや亜由美さんも無事に戻られたらどうなります。そんな捜査を受けたという事実だけで、のちのち社会的に大きな禍根を残します。男は、まだいい。でも良家のお嬢さんには痛い。どんなに捌けた自由社会に見えても、残念ながら、それがこの世の仕組みなんです」
 うらなり顔に似合わず、自己撞着を越えた真摯な主張に、朝倉は感服した。
「あんた、いい人だね」
「は?」
 曽根巡査は一瞬目をむいた。
 朝倉の好意的な微笑に気づくと、あわててカクテルに口をつけ、
「昔から、自分、それしか言われないんですよね。だから警察しか行くところがなかったという――」
 照れ隠しのように言いかけたとき、テーブルの表面が、唸るように振動した。
 黒の携帯に着信している。
「ありゃ」
 ふたりは面食らった。
 朝倉は曽根巡査と顔を見合わせ、それからおそるおそる携帯を開いた。
 LEDも液晶も、反応していない。しかしバイブレーションは生きている。表示関係だけが故障しているらしい。
 いつまでも止まない振動に、思いきって通話キーを押す。
 待ちかねたように、男の声が響いた。
『やっと出たか、慎治。俺だ』
 低く押し殺した、しかし極限まで切羽詰まった声である。
『細かい話はあとだ。まず亜由美を出せ。そこにいるんだろう』
 勇介の声だった。
 朝倉は思わずぺこぺこと頭を下げ、
「えと、あの――ごめん。残念ながら、こちら、お局様なんだわ」
 絶句する通話先に、
「あ、うん。話せば長いことながら、話さなければわかんない、なんてね。――うわ、さすが青春少年。いや、ごめん。――そう。すぐ斜め前のカフェバーにいる。――だいじょぶ? 気いつけてね」
 興味津々の曽根巡査に見つめられながら、朝倉は携帯を閉じた。
「すぐここに来るって」
「それはいけない。現状、胡乱な行動は慎んでもらわないと」
「だめだめ。もう強制退院、じゃねーや、自主退院しちゃってる」
 朝倉は、あっけらかんと手を振った。
「『又あふと 思ふ心をしるべにて 道なき世にも 出づる旅かな』ってね」
 曽根巡査は困ったような顔で、それでもふむふむとうなずいた。平兼盛は忘れても、坂本龍馬は好みのようだ。
「あの子もドブん中で前のめりに死んじゃうクチなのよ」
「いえ、それは龍馬の話じゃありません」
「うん、知ってる。じゃあ言い換えましょ。脳味噌入りの鉄砲玉」
 直後と言いたいほどすみやかに、頭に包帯を巻いたままの勇介が現れた。
「なんでここに、こんな物が……」
 真っ先に問いただしたのは、慎治の携帯の件である。のみならずその隣には、亜由美の携帯も並んでいる。
「あんたが出てきた墓の中に置いてあった。二階のちっこい部屋ん中、ご丁寧に、きちんとふたつ並べて」
「――墓?」
「そうか。あんたや亜由美ちゃんは、見てないんだね」
 勇介はとまどいながら、朝倉の向かいで気遣わしげに頭を下げている曽根巡査に気づき、頭を下げ返しながらも、さらに怪訝な顔になった。
「まあまあ、とりあえず、お座り」
 朝倉に促され、曽根巡査の隣に腰を落ち着けた勇介に、茶髪のウエイターがオーダーを問う。
「じゃあ、バーボンを」
 朝倉は笑って遮り、
「なに馬鹿言ってんの。コーヒーかなんかになさい」
 頭の中は無事でも、外は盛大に腫れ上がっている。
「あんた、ほんとに大丈夫なの?」
「――はい」
 鎮痛剤を処方されたにも拘わらず、勇介の意識は、すでに一睡もできないほど醒めていた。病室で横になっていても仕方がない。そもそも夜まで気を失っていたこと自体、自分で自分が情けないのである。
 朝倉は、改めて勇介に曽根巡査を示し、
「いろいろあって、こちら、もうグル状態。曽根さんもあたしも、あんたに何を聞いたって驚かない。だから安心して、おねいさんやおにいさんに、不思議の国の話を聞かせてちょうだいな」

          *

 勇介の話と自分たちの見聞を照らし合わせ、朝倉は腕組みしたまま、しばらく天井の隅を見上げ続けた。別にステンドグラス状の照明に見とれていたわけではなく、自分の思考そのものを熟視していたのだろう。
「……ごめん。前言撤回。めいっぱい驚いた。あんまし安心しないほうがいい」
 曽根巡査も、異議なしの表情である。
 朝倉は、横のバッグから民芸調のシガレットケースを取り出し、
「ほんとは節煙中なんだけど、やっぱ、ヤニまみれの脳味噌にはケムが必要だわ」
 言い訳がましく、マルボロで一服つける。
「つまり、慎治君が図書館で調べてたのは、あくまで過去の歴史じゃなくて、おそらく彼にとっての『今』に他ならないわけだ」
 勇介は一応うなずいた。『今』と言うにはあまりに混沌としている。しかしどんな世界でも、そこにいる間は確かに『現在』である。
「えーと、その、台湾総督府と広大な畑ですか」
 曽根巡査が、おずおずと言った。
「実は自分、学生時代に台湾を旅したんですが、台北市も東京と似たようなもんです。いえ、もちろん裏道に入ると確かに鄙びてはおりますが、それだって東京の下町の路地みたいなもんで、懐かしいなりに、けして田舎じゃない。たぶん昔も、似たようなもんだったんじゃないでしょうか」
「そりゃ一国の首都の街中だもの。戦前だって、だだっ広いお花畑はないわな」
「むしろ南部の山あいですかね」
「ほう。そのあたりなら、そんな景色がありそう?」
「そう広くはないんですが、静岡の茶畑みたいな景色なら、けっこう見かけました。広大な花畑というと、台湾蘭花プランテーション――でも、あれは七〇年代の開発だと聞いたような」
「どのみち勇介君がいたとこは、あちこちごちゃまぜね。二階から入るまでは日本として、窓の外はどこぞの農園、一階の出口は台北市――いずれも年代不詳だけど、えらく昔っぽい」
 朝倉はチェーン・スモーキングしながら、
「あたしも夢の中でなら、けっこう、そんな感じのとこに行くんだわ。朝、寝過ごしちゃって、あわてて出勤しようとして自分ちの玄関から飛び出したら、いきなりヒマラヤの氷河に転げ落ちたり。熱海の海岸の露天風呂に浸かってたら、黒船が来襲して、大砲撃たれたこともある。あれは恐かったぞ。いつのまにか混浴になってて、逃げるに逃げらんないんだこれが」
 巧まずに座を和ませる朝倉を、勇介も曽根巡査も、今はつくづくありがたいと思った。
「さて、不思議の国の話は、ちょっとこっちに置いといて――」
 朝倉は、テーブルに並ぶ携帯電話に目をやった。
「とりあえず、あたしとしちゃ、こっちのほうがむやみに気にかかるんよ。なんでわざわざ、あんなとこに置いてあったのか」
 曽根巡査も、ふたつの携帯を凝視しながら、
「時代的な話から察する限り、こう推測できませんか? 単にあっち側にありえない存在だから、こっち側に残された」
「それも、ひとつの解釈だわね」
「でも、それを言ったら、きりがないんじゃないですか?」
 勇介が首を傾げた。
「たとえば、そう、亜由美の腕時計だってクオーツだし、そもそも俺たちが着てた服だって、みんな最近の製品だ。材料だってナイロンとか、ジッパーとか、プラスチックのボタンとか」
 曽根巡査も、なるほど、とうなずく。
 朝倉は、ちょっと待て、と言うように人差し指を振り、
「デザインと材質、いっしょにしちゃいかんわ。亜由美ちゃん、昔からアナログ趣味でしょ。中身が電池でも、外見は古風そのものの時計よ。それに勇介君、ちょっと時代認識がズレてる。そりゃ大正時代に鼻ピアスや半ケツで街中歩いたら脳病院送りだろうけど、あんたらのお上品な服装なら、なんの問題もない。大正モダンなんて、舶来のダダイズムやアール・デコてんこもりよ。化学繊維も合成樹脂もチャックも、ちゃんと存在してるし。まあ細かい種類はともかく、スフとナイロンの区別なんて、ちょっと見、誰もわかんないでしょ」
 ほう、と感心しているふたりに、朝倉は続けた。
「といって勇介君の観点も、あながち的外れじゃないと思う。そもそも、あんたらがそこに行けたという時点で、すでに曽根さんが言うようなタイム・パラドックスとか、ハードSFっぽい重箱の隅は破綻してるわけよ。人体だろうがLSIだろうが、もとの素材は、すべて過去に存在してたんだから。それに、人間三人が大の大人になるのに、どんだけ過去からの資源やエネルギーが消費されてるか。モノだって同じことでしょ」
 言われてみれば、そのとおりである。
「勇介君自身も着てる物も、まだ原料として存在している過去の世界に、加工品が同時に存在できたとすれば、プラマイ双方が重複することになっちゃう。あたしが察するに、その程度の物質やエネルギーは――まあ、物質もエネルギーの形態変化にすぎないわけだけど――世界、つまりこの全宇宙の天井知らずな総量の中では、帳尻合わせる必要もない程度の誤差なんだわ」
 蕩々と述べる朝倉に、曽根巡査も勇介も、目を丸くしている。特に勇介の視線は、驚愕に近い。
「……なんじゃ、その目は」
「いえ、部長が、SFとか全宇宙とか……」
「あたしゃ講談社のブルーバックスだってけっこう読んでるぞ。あと、小松左京全集のオンデマンド版とか」
 勇介には意外な話だった。朝倉の性格はともかく、嗜好的には慎治の同類と思っていたのである。
「なんか違和感バリバリ?」
「いえ……」
「じゃあ、ご期待に応えて、力いっぱい卑近な専門分野に移りましょ。草双紙や世話物っぽく」
 朝倉は、ころりと口調を変えた。
「てゆーか、どうもあたしゃ、その変身館やら亜由美ちゃんダッシュとやらが、そこまで厳密にモノを扱ってるとは思えないのね。むしろ、めいっぱいアバウトというか、場当たり的というか、それこそ夢の中レベルの気まぐれで動いてる、みたいな」
 今度はふたりとも、すなおに相槌を打つ。
「あんたら、こくこくうなずいてるバヤイじゃないよ」
 鈍感な野暮たちに、朝倉は改めてふたつの携帯を示し、
「こんなもん、気まぐれ女が『もういらない』って思ったんなら、そこいらに放り投げときゃいいんだわ。『二度と見たくない』って思ったんなら、庭に埋めちゃうとか、川に捨てちゃうとか。なにも、ご丁寧に送り返す義理はないんだから。それをわざわざきちんと並べて、これ見よがしに返してよこしたってことは――」
 勇介と曽根巡査は、顔を見合わせた。
 その顔色が、疑問から不安に変わる。
「そう。『さようなら。もうこれっきりにしましょうね』ってこと」
 勇介が血相を変えて立ち上がった。
「こらこら青年、どこへゆく」
 袖を掴まえた朝倉を、勇介は睨むようにふり返った。
「あんた、その家の場所、知ってんの? そもそも墓の場所だって知らないでしょ」
 勇介は顔に怒りを浮かべたまま、返答に窮している。
「やっぱり、まだボケてるね。それともヤクが効いてんのかな。はい、お座り」
 勇介は渋々席に戻った。
「いや、気持ちは重々お察しするんだけどさ」
 朝倉は、慈母のごとく優しい眼差しで、
「あんたにできることは、墓場じゃなくて、たぶん、自分ちにあるはずよ」
 訝しげな勇介に、
「魔法に根性で対抗できるのは、それこそ夢物語の中だけだわ。相手が手前勝手な夢の国にいる以上、こっちは枕の下に、ありあわせの宝船の絵札置いて眠るわけにゃ行かんのよ。必要なのは、相手方と同じ宝船。つまり相手方の、入眠前の行動分析や精神分析ね。そうすりゃ、どこでどんな夢を見てるくらいは判るかもしんない」
 それから曽根巡査に目を移し、
「お巡りさんも、よろしくね」
「は、はあ」
 困惑気味だが、さすがに警察官として、心当たりがあるようだ。
 朝倉は意味ありげに微笑しながら、ふたりを手招いた。
「あっちと違って、こっちの気まぐれおねいさんは、ひとりじゃなーんもできんからね」
 それぞれに、小声で何事か伝えたあと、
「あたしゃとうぶんインフルで休むから、いつでも連絡ちょうだい」


       


 夜半を過ぎて、勇介は白金の家に戻った。
 表の大門はすでに施錠されているので、築地塀に沿った路地から、裏庭の木戸に回る。
 常夜灯に朧に浮かぶ、京都の白沙村荘を摸した庭は、何事も自然体を良しとする父親・亮太朗の趣味である。
 しかしただの自然体ではなく、あくまで個々の要素と要素が個そのものでありながら拮抗せずに調和する、そんな庭であり、庭の主である。官僚としては一流でも、正直、勇介には大きすぎた。
 もう眠っているかと思ったが、庭木の奥の座敷には、まだ灯りが点っていた。仕事や派閥がらみで週の半分は家を空ける代わり、帰宅できた日には早々に寝てしまう父親だが、さすがに今日は起きていたようだ。いつもなら足音を忍ばせるところを、勇介は意識的に庭石を擦って歩いた。
「その頭で午前様とは、さすがに若いな」
 案の定、縁側の雪見障子の内から、声がかかった。
「まず母さんを落ち着かせろ。台所で立ったり座ったり、気ぜわしくてかなわん」
 言われるまま、勝手口から台所に上がると、母親の芳恵は、小鍋で何か出汁をとっていた。
「……ただいま」
「あら、おかえりなさい」
 夫の趣味に合わせて、家でもほとんど和服姿の母親は、ふくよかな福相の一重瞼を糸のように細めて、さりげなく勇介を迎えた。
「病院のご飯じゃ、もうおなかが空っぽでしょ。鍋焼き饂飩でいい?」
 直前まで、亮太朗の言うようにうろたえていたのが、目に見える気がした。看護師たちの制止を振りきって、なかば脱走するように退院したのだから、当然、直後に連絡が入ったはずだ。
「……ごめん」
 しかし今、言えるのはそれくらいである。
「お父さんにも、きちんと挨拶してらっしゃい。心配してたんだから」
 頭の包帯を気遣わしげに見ているが、中身が無事なのを知っているせいか、あえて話題にしない。
 勇介はうなずいて、座敷に向かった。
 両親の情は、ふだんから重いほど感じている。ふたりの兄が父親同様キャリア組の軌道に乗り、それぞれふさわしい妻を迎えて独立してから、この広い屋敷は、通いの家政婦を除けば親子三人暮らしである。そして、末っ子の勇介が兄たちほど安心できないぶんだけ、むしろ親たちの愛着は濃い。それが解るだけに、元来意地っ張りの勇介は、なお居心地が悪いのだった。
 座敷に入ると、亮太朗は丹前姿で、炬燵のノートパソコンを相手に、マウスで碁を打っていた。古い碁盤や碁石が似合いそうな部屋だが、その主はあくまで合理主義者なのである。
 勇介が軽く頭を下げ、炬燵の向かいに座りこむと、
「さっきまで、古賀さんの奥さんが来ていた」
 パソコンに目を向けたまま、亮太朗が唐突に言った。
「古賀さん?」
「睦美さんだよ」
 旧姓・愛川睦美――つまり結婚して家を出た、亜由美の姉である。
「愛川さんの家は、姉ひとり妹ひとりだからな。まあ、いろいろ話を聞かされたよ。亜由美ちゃんも、両親に言えないような話は、今でも睦美さんに相談してるらしい」
 とまどっている勇介に、
「亜由美ちゃん、まだ家に戻ってないそうだ。あちらの親御さんも、うちの奴も、今んとこただ心配してるだけだが、睦美さんには、なにか心当たりがあるらしい」
 亮太朗は遠近両用眼鏡の奥から、上目遣いに勇介を睨んだ。
「朝倉さんたちとはぐれてから、亜由美ちゃんは大学の授業に戻り、お前はひとりで歩いているうちに転んで頭を打った――そんな与太話を信じるほど、俺もお人好しじゃないぞ。だいたい墓石で打った頭かどうかくらい、どんな藪医者にだって判る。まあ今のところ、あくまで患者の個人情報だからな。警察には伝わってない」
 朝倉や曽根巡査の懸念は、警察より先に、亜由美の姉や勇介の父親に発現していたのである。
 勇介は、心を定めた。
 朝倉と相談した用件をどう父親に切り出すか、帰途、ずっと思いあぐねていたのだが、かえって話が早い。
「……間宮慎治」
 その名を告げると、亮太朗は予想していたように、
「やはり、その頭は慎治君の――」
 後を口ごもったのは、慎治の両親が生きている間、間宮家とも家族ぐるみのつきあいだったからだろう。
 勇介は無言で、それは言えない、と、亮太朗の目に真正面から応えた。
「……そうか。なら、いい」
 父親に肯定と受け取られるのは心外だが、今日の体験を話しても、当事者以外の人間が納得してくれるはずがない。それより、父親に動いてもらうのが先である。
「親父。折り入って、お願いがある」
 亮太朗は、珍しく間の抜けたような顔になって、勇介を見つめた。
「――お前に願い事をされるなんて、何年ぶりだ? それこそ、あそこに毛が生えて以来じゃないか?」
 ふだんは冗談ひとつ言わない亮太朗だが、本音になると、なぜかそんな言い回しをする。
「慎治がいなくなったことは、もう知ってるよな」
「ああ。朝倉さんたちに聞いた」
「全財産ごと、消えてるんだ。口座の通帳から証券類まで、一切合切持ち出してる」
「……ほう」
「それが、今現在どうなってるか。たとえば口座から現金を引き出したなら、いつどこでいくらとか、証券類が処分されてないかとか――親父なら、掴めるんじゃないか?」
 亮太朗は、険しい顔になった。
「また、えらい願い事だな。個人情報の守秘にこれだけやかましい昨今、それは俺に『立場を悪用して四方八方情報漏洩を教唆しまくれ』、そう言っているのと同じことだぞ」
 そのとおり、と、うなずくしかない。
「まあ、単に『足取りを探れ』とも取れるか」
 同様である。
 亮太朗は即答せず、パソコンに向きなおると、元のように碁を打ちはじめた。
 数瞬後、
「――俺は何も聞かなかった。お前は明日の夜まで、いや、明日は土曜だな。とにかく、少し待て」
 勇介は、黙って深々と頭を下げた。
「亜由美ちゃんは可愛いからなあ。睦美さんも綺麗だし。あの姉妹に笑ってもらうのが、今は最優先事項だろう。お前と一蓮托生になるのは、少々情けない気もするがな」
 まさに『あそこに毛が生えて以来』、勇介は、父親に自分と同じ血の匂いを感じていた。
 そのとき障子の外から声がかかり、芳恵が湯気の立つ盆を運んできた。
 重そうな手つきに、勇介がすかさず立って、手を添える。
 亮太朗は、炬燵に並べられたふたつの鍋を横目で窺い、
「母さんは食べないのか?」
「また太っちゃいますもの。こんな夜中に食べたら」
「かまわんと思うぞ。俺は子供の頃、京塚昌子さんのいる家に住みたかった」
 皮肉の色はまったくない。
 はにかむように笑っている芳恵をよそに、
「――よし、これでネット七段だ。金で買えるアマ段位なんぞより、よほど胸が張れる」
 亮太朗は上機嫌でマウスを放し、勇介に手つきで『食え』と勧めてから、旨そうに自分の饂飩をすすりはじめた。
「しかし母さん、やっぱり、こいつがいちばん面白いな」
 碁ではなく、勇介の話らしい。
「はあ?」
 目を丸くする芳恵に、
「いや、亮介や浩介もまずまず上出来だが、正直、ときどき気持ちが悪くなる。あんまり要領が良すぎてな。陰でこそこそ他人の顔色を窺いながら、表面《おもてづら》自信たっぷりに世渡りするとこなんざ、そっくり昔の俺のまんまなんだよ。あんまり似てるんで、たまに、後ろ頭を思いきり張り倒してやりたくなる」
 芳恵は困ったように笑いながら、
「私は、みんなかわいいですけどね」
「そりゃかわいいだろうが、面白くはないぞ」
 亮太朗は、複雑な心境で饂飩をすすっている勇介を見やり、
「その点こいつは、ほっといても、誰かに張り倒されて帰ってくる」


       


 翌日、勇介は昼前に病院を訪れて、再診を受けた。やはり内部的な異常は見られず、湿布や包帯を代えただけで済んだ。
 そして午後には、朝倉と新海の店で待ち合わせ、青山霊園を再訪した。例の館を模した墓標を、勇介も見ておくためである。
 前日と同じ経路をたどり、勇介と亜由美が消えた小道のかなり手前で、
「あんた、このあたりで倒れてたことになってるから」
「はい。だいたい口裏合わせておきました」
「いやー、あんたガタイがいいから往生したわ。曽根さんとふたりがかりでも、重いのなんの」
 例の蔦に覆われた柵に行き着くと、朝倉は四方に人影がないのを確かめてから、裏手の一面の蔦を、楽々と引きはがした。前日、柵の入口を探してむしり取り、また整えておいた部分である。
 柵の一部には、人ひとり通れる程度の狭い門が設けられていた。
 その中に佇んでいる、腰高ほどの白い館に、勇介は息を呑んだ。サイズを度外視すれば、シルエットはまさにあの館そのものである。
 門の中央に微細な銘板を認め、顔を寄せてみると、なかば緑青の浮きに覆われた文字が、かろうじてこう読めた。
「『Jasmine Heights』……」
「うん。もしか、これにも見覚えアリ?」
「はい。大きさは何倍もあって、つやつやでしたけど」
「なるほど。ほんとに雛形なのね」
 柵の内側は、大理石らしい土台が敷かれ、やや土埃が被っているものの、長く放置されていたようには見えない。その土埃が不規則に乱れているのは、朝倉たちが動き回った跡だろう。
 朝倉たちが、この雛形に救急隊を近づけなかったのには、当然、理由がある。
「ここんとこ」
 朝倉は、南に面した二階の露台を指さした。
「こん中の部屋に、あの携帯が置いてあったのよ」
 勇介の心臓が脈打った。
 亜由美を追った階段の踊り場まで、丁寧に造りこまれている。
 ただ、館全体はさすがに実物のような細板の集合体ではなく、壁面などは一枚板の組み合わせで、窓も、朝倉が示した露台の扉も、ガラスは嵌っていない。そもそも開閉構造になっていないようだ。
「あんたを担ぎ出すときに、もう見つけてたんだけどね。なんせ扉が開かないでしょ。必死こいて枠の間から回収してくれたのは、曽根さんなんだわ。夜、あの店に来る前ね」
 勇介はじっくりと四方を検分し、それが亜由美と共に訪れた館の再現物であることを確信した。
「……これ、ほんとに、墓なんでしょうか」
「厳密に見れば、お墓じゃないような気がする。人名らしい墓碑銘はないし、底が抜けてるようでもない。一種のモニュメントかも」
「誰かに手入れされてますよね」
「うん。それもまた悩ましいとこ。柵は蔦だらけで、あたしらも入るのに苦労したってのに、中身はまるで毎週磨いてます、そんな案配でしょ。年に一度はペンキも塗りなおしてます、みたいな」
「はい」
「まあ、その謎の女とやらが、日曜ごとに夜中に這いだして、鼻歌歌いながらワックスかけてても、あたしゃもう驚かない。毎年大晦日に、除夜の鐘聞きながら白ペンキ塗っててもね」
 朝倉は、すっかり居直っていた。
「現に、あんたが生えてきたんだから」
 本当に自分がここから出てきたのなら、可視的構造ではないにしろ、なんらかのゲートが存在するはずだ。亜由美も慎治も、あの謎の娘も、その向こうに存在しているはずだ。慎治が出入りしていた以上、俺がまたそこを通り、亜由美を連れ戻すことだって――。
 そう念じながら、何ひとつ自分では解決できない悔しさに、勇介の胸は疼いた。
「焦りなさんな。あっちに慎治君がいる限り、亜由美ちゃんも無事のはずよ」
 朝倉が、見透かしたように言った。
「果報は寝て待て、じゃないね。人事を尽くして天命を――いやこれもちがう。とにかく、できることをするまでだわ」
 そのとき、年季の入ったスポーツバッグから、鈍い音が響いた。
「おう、着信アリ。どれどれ、天命さんかな」
 携帯を取り出した朝倉は、勇介に向かって、指でOKサインを出した。
「近い。曽根さん」
 墓の所有者について、霊園の事務所に赤の他人が根掘り葉掘り訊ねるわけにはいかない。曽根巡査は職業柄、そちらの聞きこみを任されたのである。
 朝倉はメールを開き、
「えーと――『岡崎宏傳』――マジ?」
 指で丸を作ったまま驚愕した。
 勇介も、差し出されたその液晶表示を覗きこんだ。

  墳墓扱いながら、遺体や遺骨は埋葬なし。一種の供養塔。
  昭和20年9月建立。
  供養者、当時東京市芝区白金台町在住、岡崎宏傳氏。
  すみません。今のところ、ここまでです。
  委細は後日、足で探りたいと思います。

 朝倉は驚喜もあらわに、その場で返信を打ちはじめた。
「えーと、そんだけわかりゃ、御の字よ、と。岡崎氏なら、こっちの管轄。お巡りさんは安心して勤務に戻り、一般市民の平和のために、悪漢輩と戦ってください。でも鉄砲の玉はうまくよけてね、ぽち、と」
 一方、勇介は前日の記憶を呼び起こしかねて、首を傾げている。
「岡崎宏傳……」
「そう。これよ、これ」
 朝倉は、スポーツバッグに入ったままの、例の画集を頼もしそうに叩いてみせた。
「考えてみりゃ、関係あったって、なんの不思議もないんだわ。本家本元をスケッチしてるくらいだもん。岡崎翁の情報なら、文庫室からなんぼでも追える。とゆーわけで、本日ただいま、朝倉司書のインフルは快癒いたしました。これより雄々しく職場に復帰します!」
 すちゃ、と、自分で擬音を口にしながら勇介に敬礼し、
「で、あんたは、今んとこ待機。ゆっくりおつむや体を休めておくこと」
 勇介の忸怩たる面持ちに気づくと、
「……まあ、そんな気分にゃ、とてもなれんわな」
 朝倉は昂揚した顔を、ふと微笑で曇らせて、
「でも、落ちこんでちゃだめよ。あんたらしく、いつでもダッシュできるイキオイでムカついてなさい」
 そう優しく付け加えた。


       


 小柄だが敏捷な若者の正拳が、慎治の鳩尾に深々と決まった。
 薄暗い路地裏の土に胃液を吐き散らしながら、丸虫のようにうずくまった慎治の背中を、粗野な若者たちが取り囲み、容赦なく蹴り下ろす。
「老板不相会《ラオバンブゥシャンフイ》!」
「首先翻錢《ショウシェンファンシェン》!」
「別認為我們愚蠢《ビェレンウィウォアメンユチュン》!」
 早口すぎて春樹にも完全には聴き取れなかったが、『ボスは会わねえ』『まず金を返しやがれ』『俺たちをなめんじゃねえぞ』、そんな意味であることは明らかだった。
 誰かの爪先が、荒々しく慎治を転がす。
 仰向けになった慎治の胸と言わず腹と言わず、執拗な蹴りが続いた。
 肋骨が折れるのではないか――いや。この程度で人の骨は折れない。
 殺されるのではないか――いや。この連中は馬鹿でも、雇い主はそこまで馬鹿ではない。
 この時点で慎治と春樹は、ほぼ融合を遂げていた。
 肉体的な優位性からか、常の自覚は慎治が勝っている。最終的には春樹が慎治に統合されたようだ。しかし意識の表裏の境界に、常に春樹も存在している。そして今、暴力金融相手の荒事など一度も経験したことのない慎治の苦痛や焦燥に、修羅場に慣れた春樹の感覚が重複し、冷静に補っていた。
 裏道ではちょっとした顔のつもりで闊歩している華僑黒社会のチンピラたちも、この時代の台湾では、表に出れば日本人に逆らえない。また人種に関わらず、慎治のように身なりのいい、癪に障るほど育ちの良さそうな相手を思うさま虐げる機会など、めったにあるものではない。だから、ここぞとばかり派手に蹴り回しているが、下手に重傷を負わせれば、上から大目玉を喰らうのは目に見えている。まして死なせたりしようものなら、張本人は海に沈むだろう。貯蓄的な徴兵保険や養老保険は明治時代から存在しているが、命そのものを容易に換金できる時代は、まだ先である。
 無抵抗の慎治をひとしきりいたぶり、小気味よさそうに唾を吐きかけた後、若者たちは古びた煉瓦造りの建物の裏口に、意気揚々と引きあげていった。
 ほどなく、呻きながら、痛む体で懸命に起き上がった慎治は、血の滲む口元に微かな笑みを浮かべた。
 さて、謁見前の禊ぎは済んだ――。
 顔にかかった他人の唾液を拭いながら、そう不敵に笑うのが慎治であるのか春樹であるのか、もうどちらにも判然としない。
 慎治は、折れる寸前で持ち堪えた長い脚を引きずって、裏路地から表通りに回った。
 台北市街の中ではあくまで場末だが、阿片窟などのある一帯ほど荒んでおらず、庶民的な繁華がある。台湾の人々――もっともこの時代、少数派の台湾島ネイティブも多数派の漢民族も、正式な『日本人』なのだが――に混じり、帝国陸軍の軍服姿もあれば、民間邦人も行き交っている。そこを恰幅のいい邦人青年が、土埃にまみれ傷だらけになって歩くのだから、当然人目を引く。気遣って声をかけてくる人々を笑顔で制し、慎治は例の煉瓦造りの表玄関に立った。
 やがて建物の中から、先刻の若者たちよりはかなり年嵩の、一見実直そうな、地味な執事服の男が走り出て、何事ならんと注視している通行人たちを卑屈な笑顔でいなしながら、いたわるように慎治を招じ入れた。
 人目のない奥に入ったとたん、苦虫を噛みつぶしたような顔になる執事に、慎治は鷹揚にうなずいて見せた。言葉を交わしたことはないが、何度か顔は合わせている。
 三階の奥、支配人室に通される。
 中華風と日本風の混淆する、奇妙に華美な一室の机から、初老の華僑・劉雲憲《リウユンシェン》が、艶のある二重顎を揺らして笑った。
「イイ度胸ヲシテイルアルナ」
 横浜にも二十年いたという劉は、本来達者な日本語を話すはずだった。意識的に日本で戯画化された中国人を装うのは、あくまで営業用なのだろう。
「マサカ、マタ表カラ来ラレタノデハ、仕方ナイネ。許シハシナイヨ。話、聞クダケネ」
 劉の周囲に侍る部下、もとい手下の中には、先ほど慎治を痛めつけた若者も何人か混じっており、白けたふうに慎治を睨め回した。しかし劉に射るような視線を流されると、あわてて畏まった。
「私は、あなたからの恩義を、絶対に軽んじはしない」
 慎治は真摯に頭を下げた。
「ただ、その恩義に報いるのに、今はどうしても力が足りないのです」
 劉は能面のような笑顔のままで、
「信用ナラナイネ。アナタ、日本ノ銀行ノ利息、キノウマデニ全部ハラタ。アチコチニ溜マタツケ、全部ハラタ。ツマリアナタ、ドコカラカ大変ナ財産、手ニ入レタ。ソレデモ、ウチニハ利息ヲ待テト言ウ。ソレ、アナタノ言ウ恩義アルカ?」
 久しぶりの対面とはいえ、肉体的には幾分若返ったはずの春樹に、劉も特に違和感を抱いた様子はない。元来の際立った容貌と、物腰から漂う精神的成熟の力だろう。
「彼らは、あなたほど賢くないのです。期日が過ぎれば、即座に差し押さえすると言う。先日、本土の篤志家に支援を受けるまで、私には財産など一文も残っていなかった。一文無しから、何を差し押さえられると言うのです」
「鼓南村ノ農園ハ、権利ガ残テイタダロ」
「しかし、せいぜい銀行借入の半分にしかならない。あなたの恩義に報いるためにも、あの農園を手放すわけにはいかなかった。そのために、今回の支援は全部あちらに回しました。結局、今の私は、また裸一貫に戻っただけです。家も、あの農園も、銀行の抵当のままだ」
 もとより劉も知っているはずである。今、間宮春樹が破産すれば、あくまで闇社会の劉にとっては、利息どころか貸付の全額が失われる。といって、他への見せしめのために邦人を始末するなど、在台の中国人には自殺行為である。つまり本来、間宮春樹は劉に対して、いくらでも居直れる立場だった。
「お願いですから、次の刈り入れまで待ってください。そのときは、何よりあなたの恩義を大切にすると、お約束します」
 あえて慎治は土下座し、肩肘を張って平伏した。
「――コレハ、オモシロイネ」
 劉は嘲笑するように、
「日本ノサムライ、オジギ、ソンナ感ジダッタネ。モトモ、活動デシカ見タコトナイガネ。日本ノサムライ、本物、モウイナイ。トックノ昔ネ。デモ、サムライ約束ヤブル、ハラキリダヨ。アナタ、ココデ腹キルカ?」
「秋になっても私が忘恩の徒であったら、切りましょう」
 真顔の慎治に、劉は鼻白んだ。
「冗談アル。腹ナド切ラレテモ、一文ニモナラナイ」
「腹は他人のために切るのではない。己の恥を濯ぐために切るのです」
 慎治の言葉の奥にある気骨を感じたのか、あるいは、ここまでやれば互いの腹芸や部下への面目は充分と思ったのか、劉は卓上のベルを鳴らした。
「馬上來《マァシャンライ》、宗昌《ツンチャン》」
 宗昌という名らしい、あの実直そうな執事が、即座に駆けつけた。
 何やら劉に指示され、足早に消える。
 劉は、さらに手下たちを人払いしてから、
「新しい借用書を用意しよう。複利で大変結構な条件になってしまうが、覚悟の上だね」
 流暢な日本語である。
「感謝いたします」
 慎治は、再度平伏した。
「感謝より、金が欲しいものだ」
 劉は磊落に笑った。
「しかし侍のモツ鍋も、死ぬまでに一度食べてみたい気がする。猿ノ脳味噌ヨリ、ウマイアルカナ?」
 やがて、借用書を正式に更新しながら、
「しかし間宮さん、これでこの夏は凌げるにしても、後はどうするのだね? 今のままでは、また同じことだよ。私も、さすがに次は貸せない。銀行だって黙ってはいないだろう。土台、茉莉花の栽培で大陸に勝つなど、無茶な話なのだよ」
 非合法側の最右翼と関係を修復した慎治は、次への布石を切り出した。
「個人的に貸してくれとは申しません。しかし正式な投資なら、いかがでしょう」
 この見かけによらず血気盛んな若者は、まだ懲りずに何か考えているのか――呆れている劉に、慎治は続けた。
「無論、この借財を清算してからで結構です。秋までには、あなたにも納得していただけるような計画書を用意します。その節は目を通すだけでも、ぜひお願いします」
 ただのはったりではなさそうな口ぶりに、劉は改まって訊ねた。
「ひとつだけ、お伺いしたいのだが」
「はい」
「このところ、君は毎日夕方遅くまで、金の始末に市中を巡っていた」
「はい」
「ところが昨日の夜、たまたま鼓南村に行っていた私の部下が、君の姿を見かけているのだよ」
 慎治は、今度は即答を控えた。
 たまたまと言うのは、大方農園の状況を確認させるために派遣したのだろうが、日中の行動も把握されていたなら、時間的な齟齬は隠せない。
「狭い島とはいえ、日本の九州ほどはある。北から南へ、鉄道、車、どんなに急いでも数時間以上かかる」
「……はい」
「もしや君は、軍部と結んだのかね?」
 そうか、と慎治は納得した。
 現実家の劉なら、まだ希少な軍用飛行機の使用を考えて当然である。
「……それは、今はお答えできません。確かに間宮家は軍部とも深い繋がりがありますが、あくまで私は間宮家から勘当された、一介の素浪人ですから」
 俺も立派な山師になってゆくな――そう内心で苦笑しながら、慎治は曖昧に話を運んだ。
 いっさい嘘は言っていない。
 しかし、そこから劉が確固たる後ろ盾の存在を錯覚してくれれば、今後の関係に、なにかと有利なはずだった。

          *

 自分の殻に閉じこもる――。
 そんなありふれた表現は、複雑な人の心を知らない単細胞の偏見だと、以前の慎治は思っていた。
 寡黙と無自覚は別物である。自分をそんな括りでたしなめる連中は、教師にせよ弁護士にせよ税理士にせよ、俗世間に馴致された幸福な俗物であり、己の人格を世間に切り売りしながら、他人にも同様の切り売りを勧めているにすぎない。
 しかしそんな世間にも、勇介のような、世間から俗性を収奪して逆に確固たる自我の糧としてしまうような、強靱な奴がいる。また、亜由美のような、心身ともに自我そのものであるがゆえに、常に真っ向勝負で他我と対峙している人間もいる。
 腹を割るとか愛し合うとか、それもまたありふれた括りなのかもしれないが、とにかく彼や彼女と深く交わり、彼や彼女を通して世間を把握しながら己の自我を育ててゆく――そうしている限り、けして自分は狭い殻になど閉じこもっていない理屈だった。
 しかし春樹と重なることによって、慎治は自分がいかにこれまで頑なな殻に閉じこもっていたか、否応なく思い知らされた。
 慎治が提供した資金を携えた春樹は、行き詰まっていた農園経営をたちまち軌道に戻した。その過程で、台湾総督府の役人や銀行・商社の支店長といった邦人のみならず、海千山千の華僑や土着の実力者とも渡り合ううち、慎治は己の心や意思を世間と絡みあわせるための微妙なスタンスを、春樹から学び取っていた。いや、すでに春樹と記憶を共有してひとつの人格を形成しているのだから、厳密に言えば学ぶも学ばぬもなく、あくまですでに身につけていたものを改めて実感したわけだが、ともあれ自分を殺さずに不特定多数の人間と直で交わるだけの精神的技量を、慎治もまた獲得していたのである。
 一方、春樹にとっても、慎治は得難い救世主だった。いや、春樹もまた自分の中で慎治と同体なのだから、慎治の思考は春樹の思考でもあるのだが、ともあれその新しい部分の力によって、破綻しかけていた当座の利払いを済ませ、さらに農園の長期的存続を望みうる最先端の技術発想も得られたわけである。
 自分の農園は、茉莉花茶の原料栽培としては、規模において広西省など大陸南部に対抗できないにしろ、栽培品種を変えて欧州や米国向けの最高級香料を生産すれば、技術的に巻き返せるのではないか――春樹はなかば確信していた。その技術を実現してくれそうな人材にも、すでに資金援助を始めている。
 まだ痛み続ける四肢など少しも気にならぬほど昂揚したまま、雑然とした裏町から繁華街に抜けると、路傍の露店市場から、鋭い声がかかった。
「慎治! ――慎治さん!」
 周囲の目を意識して、あわてて『さん』付けにしながら駆け寄って来たのは、愛川亜由美だった。
 あの日から、すでに二日が過ぎている。
「どうしたの! 大丈夫?」
 勇介ならいざ知らず、およそ慎治の喧嘩姿など想像もできない亜由美は、野菜類の収まった買物籠を放り投げるようにして、彼の血の滲む口元に指を震わせた。
「ああ、平気。かすり傷だよ」
 慎治は余裕で微笑んだ。
「それより、ここでは春樹だから」
 まだ気遣わしげに指を泳がせている亜由美の耳元に、そう小声で付け加える。すでに家が近く、知人に聞かれないとも限らない。
「……じゃあ、あたしは絹枝?」
 亜由美は、心外そうにつぶやいた。
 慎治は答えられず、足元の買い物籠を拾い上げた。
 ついそのまま持ち運ぼうとして、思いとどまり、さりげなく亜由美の手に戻す。大正デモクラシーの時代でも、まだ日本人にレディーファーストは根付いていない。
 連れだって館に向かいながら、
「信じられないわよ。いつも、あなたが買い物してたって言うじゃない」
 日本の統治も明治以来長く、たいがいの食品は行商と御用聞きで調達できるが、ちょっとした食材が不足することも、ままあることである。
「仕方ない。あれは、庭の外に出られないから」
 慎治が絹枝を呼び捨てにするたびに、なれなれしさを咎めてか亜由美の柳眉が逆立つので、絹枝のいない所では、慎治も『あれ』と呼ばざるをえなかった。
 亜由美は腹立たしげに、
「幽霊だか魔女だか知らないけど、怠慢よ。吸血鬼じゃあるまいし、家ではのんびり日向ぼっこなんかしてるじゃない。私なら絶対、旦那をひとりでスーパーになんか行かせない」
 必ずしも嫉妬から出た言葉ではなさそうだった。言葉遣いはともかく性差意識においては、奇妙なまでに古風な亜由美である。我の強さとモラルの新旧は別のものだ。いや、我が強いからこそ、大の男が侘びしく葱を買う姿は見たくないのだろう。
 このところの異常な事態を、あくまで自分の日常的な感性や行動に納めてしまう亜由美が、慎治には、あらためて眩しかった。一度破局を経たからか、あるいは春樹としての驚きが干渉しているのか、初めて出会った高校時代の、目の眩むような憧憬が胸中に蘇ったりもする。
 実のところ慎治の中の春樹の部分は、そんな強靱な女性にまだ馴染めずにおり、むしろ、この絹枝に似た女性は錯乱を避けるためにあえて高慢な態度をとっているのではないか、そう感じていた。真実は、亜由美自身にも解らない。
 そもそも、なぜ勇介だけがあちら側に帰ってしまったのか、なぜ二階の扉が消えてしまったのか、彼ら全員が解っていないのである。また、望む望まぬに関わらず、慎治と春樹のような関係がなぜ亜由美と絹枝の間に生じないのか、それも解らない。それとなく絹枝に水を向けても、『さあ。わたくしも、どうして自分がここにいるのか、よくわかりませんの。なにを待っていたのかは、よくわかっているのですけれど』などと曖昧に流しながら、婉然《えんぜん》とした眼差しを慎治に向け、亜由美を苛立たせるばかりだ。
 慎治と亜由美は気詰まりな沈黙を保ったまま、なにがなし懐かしい面映ゆさを感じながら、ふたり並んで街路を歩き続けた。

          *

 やがて、台湾総督府の塔が聳える中央市街に出る。
 ここしばらく文官統治が続き、行き交う人々の表情にも、大陸ほどの社会的緊張は薄い。
 茉莉花館の、瑞々しい蔦に覆われた柵格子や煉瓦塀が、周囲の街並みに違和感なく溶けこんでいる。
 門の奥の、爽やかに明るい扉――あの一階の玄関である――を抜けると、奥の厨房から軽やかな声が響いた。
「すみません、亜由美さん、お使いだてしてしまって」
 亜由美が厨房に入ると、絹枝は愛用の黒いフライパンで野菜を炒めていた。
「重ね重ね申し訳ないのですけれど、お葱を小口に刻んでくださる?」
「……その前に、薬箱はありますかしら」
 慇懃無礼な亜由美の声に振り向いた絹枝は、亜由美の背後で「やられたよ」と言うように軽く手を上げている慎治の姿を見ると、さほど驚かずに調理を止め、布巾で手を拭きながら、ふたりを居間に導いた。現在の居間は二階ではなく、一階の並びにある。
「まあまあ、春樹さんったら、まるで出会った頃のよう。いくつになっても、無茶ばかりして」
 居間のソファーで、絹枝は、喧嘩して帰った子供を諫める母親のように、慎治の顔や手の擦り傷を消毒する。
 そんな絹枝に対抗するように、亜由美も片側から、負けじとかいがいしく手当てする。
「慎治さんは、昔から紳士的な方でしたわ。それはそれは春の風のような方ですもの、野蛮な争いごとなんて、とんでもない」
「あら、でも、春の嵐ということもございますでしょう? 殿方ですもの、いざとなったら、雄々しく戦《いくさ》に立つ気構えがなければ」
 戦争など無縁の亜由美は、むっと黙りこんだ。
 構図だけ見れば両手に花だが、間に挟まった慎治は、一種、針の筵に座っているような気分である。その感覚は、春樹にも容易に共有できた。共に、母親と祖母、つまり嫁姑の間に立つ父親を見て育っている。
 しかし今の慎治にとって、亜由美はすでに勇介の恋人である。
 だから、やがて女たちが微妙な神経戦の末に得意料理で飾りたてた晩餉の卓を共に囲むとき、つい心根が春樹に傾いて、妻である絹枝と話が弾んでしまうのも、やむをえない男心だった。
「まあ、名誉の負傷と言っていいだろうな。これで劉さんとも話がついた。あとは夏の嵐が来る前に、収穫を済ませるばかりさ」
 刈り入れが無事に終われば、劉への返済や銀行金利を除いても、充分な運転資金が残る。自転車操業には違いないが、今の慎治は春樹のように、いや春樹として、自負を確信とイメージできる気迫があった。
 ワインに酔った慎治は、陶酔感の赴くがまま席を立ち、食堂の南の大窓に向かった。
 絹枝も淑やかに夫を追う。
 慎治が窓を開け放つと、裏庭に張り出したウッドデッキの彼方、夏宵の星空の下には、やはり果て知れぬ花園が広がっていた。
 その香気を胸深く吸いながら、慎治は決然と言った。
「来年こそ、さらに大きくしてみせる」
 優しさと猛々しさの程良く融け合った声に、絹枝が全幅の信頼をこめて身を寄せる。
 と、
「……ひどいよ」
 消え入るようなつぶやきが、背後から漏れた。
「ひどいよ、慎治……」
 慎治が振り向くと、亜由美は椅子に座ったまま両の拳を膝に置き、小刻みに肩を震わせていた。
「……一度だって、あたし、聞いたことないじゃない。……そんな声も、顔も……見せてくれたこと、一度もないじゃない」
 とぎれとぎれに言いながら、子供のようにしゃくりあげる。
「……あたしだって……あたしだって……」
 うなだれた顔の下、おびただしい涙が卓上を濡らしている。
 慎治は瞬時に酔いを忘れ、我も忘れて駆け寄った。
 数年を共に過ごしながら、慎治はほとんど亜由美の涙を見ていない。彼女の姉の結婚式を除けば、あの高一の夏、スペインのジャスミン畑の片隅、湖畔の東屋で初めて口づけた夕辺、それ以来だろうか。
 伏せたままの亜由美の顔に、あたふたとテーブルナプキンをあてがいながら、慎治は、この奇妙な館で懸命に気丈を装っていた亜由美の、深い孤独を思い知った。
 また、片手の指先に触れる、亜由美の震える肩から背中へと小滝のように流れる黒髪の艶やかさに、かつて到底その美しさに値しなかったであろう自分の来し方を、痛いほど悔いていた。
「亜由美……」
 その涙が慎治への咎めや哀訴だけでなく、亜由美自身のやるせない悔悟であることには気づけないまま、ふと、彼女のこんな涙を勇介はもう見ただろうか、などとも思う。
 そうして亜由美の背中をいたわる慎治あるいは春樹が、背後に立つ絹枝の存在をつかのま失念していたのかといえば、けしてそうではない。なぜか、あえて振り返るべき気配を感じなかったのである。
 事実、絹枝は窓辺に佇んだまま、年若い孫の青臭い恋模様を見守る祖母のように悠揚と、しかし、渓川の瀞に浮かぶひとひらの病葉ほどの憂愁も含んで、ただ雅に頬笑んでいるのだった。


       


 土曜の午後と日曜の昼を結局無為に過ごし、勇介の苛立ちがそろそろ臨界に達しようとしていた夜半、朝倉から連絡が入った。
『や、おばんでおまた。暴れてないかい?』
「……今、街中のガラス窓を叩き割ってました」
 自室のベッドの万年床でふて寝しているうちに、そんな夢を見てしまったのである。
『おうおう、荒ぶる若者。うちの図書館の窓も、きっちり叩き割ってくれたかな』
「いえ、校舎の窓を半分まで。そこで起こされた」
『そりゃ邪魔して悪かったね。バイクも盗んで走りたかった? でもまあ近頃の学説だと、夢ってやつは深層心理とは無関係。単なるREM睡眠下の過連想だそうだから、無問題無問題』
 朝倉はあいかわらずのマイペースで、
『で、岡崎翁の件、ようやく話の聞けそうな遺族がつかまったんだわ』
 勇介は反射的にベッドから飛び下り、携帯を耳に当てたまま、散らかった机のメモパッドを開いた。
『娘さんの岡崎京子って人が、鎌倉に住んでた。で、ありがたいことに、この人が晩年の岡崎翁の助手みたいなことやってたのね。娘ってっても七十過ぎてるけど、矍鑠としたもんよ。引退前は、東京女子大で中国文学やってたんだって。アポとったら、退屈してるからいつでも来いって言ってくれたんだけど、なんのなんの、けっこう市民講座とかで引っ張り凧の先生なんだわ。結局、今度の水曜にインフルぶりかえして、お邪魔することにしたから』
「水曜……ですか」
 まだ三日も先である。勇介のあからさまな失望声に、朝倉は苦笑で応じた。
『だから焦りなさんなって。あんたが鎌倉に飛んでってふんづかまえても、土俵が違うんだから勝負になんないでしょ。それに、前にも言ったっけ。あんたの見たのがいつのどこであれ、そこで慎治君が元気にしてたんなら、亜由美ちゃんもきっと無事よ。だいたい慎治君、紳士的すぎるっつーか、真面目を越えてもはやつまんねー奴っつーか、振られた女を口説き直せるようなタマじゃないでしょ。あんたじゃないんだから』
 痛いところを突かれたが、かえって勇介の気は鎮まった。
『で、そっちのグアイはいかが』
「ゆうべ連絡したときのまんまです」
 昨日も仕事で登庁した父親だが、持ち帰った情報は、慎治が以前契約していた税務会計事務所の名前だけだった。
『そっか。まあ図書館や警察と違って、カタギの衆は休みだもんなあ』
「はい。親父の奴、今日はのんびり接待ゴルフに出かけちまった」
『でも信用して待ちな。あんたの親父さんもハンパじゃないから』
「――はい」
『うん、平常心平常心。んじゃ、まったねー』
 軽い声を残し、さばさばと通話が切れる。
 勇介は、彼らしくない細い吐息を漏らすと、脱力して椅子の背にもたれた。
 そのとき、ドアが軽くノックされ、
「入るぞ」
 ぶっきらぼうにことわりながら、亮太朗が顔を出した。お気に入りのゴルフ姿、ニッカボッカのままである。
「内緒話は、もっと小声でするもんだ」
 途中から聞かれていたらしい。勇介は、さりげなくメモを閉じた。
「今の相手は朝倉さんか?」
「……うん」
「あの人も半端じゃないな。病院で見ていて、私設秘書にスカウトしたくなった」
 ふたりの人物評の類似に、勇介は少なからず驚いた。通話中の朝倉の声が、廊下まで聞こえたはずはない。あくまで偶然である。
 亮太朗は、懐から厚く脹らんだ小型封筒を引き出し、机上に滑らせた。
「のんびりゴルフをしながらでも、陰で人は動かせるぞ」
 あわてて中身を検める勇介に、
「こればっかりは、通信回線に乗せるわけにゃいかんからな。ゴルフついでに、何某会の誰某さんに持ってきてもらった。とりあえず証券類の流れだけは判る」
 公認会計士協会の会長に個人的な借りを作ってしまった、そんな愚痴は口にしない。
 A4で数枚、折りたたまれたプリントアウトを拡げ、ざっと目を通した勇介は、思わず感嘆した。
「総額、五億四千七百六十万――」
「慎治君の家なら、少ないくらいだろう。そんなに売り急がなきゃ、七億越えたんじゃないかな。証券会社や会計士への手数料も馬鹿にならん」
 兆単位の円に慣れた亮太朗は平然と言って、机から勇介のフィリップモリスを取り上げ、一本くわえて火を着けた。
「俺のピース、切らしちまった。手数料にもらうぞ」
 勇介は書面に目を走らせながら、気もそぞろにうなずいた。金額以上に、日時が気になる。
「一月二十五日から――二十九日か」
「ああ。慎治君がいなくなったのは、いつだった?」
「たぶん、十七日」
「思うところを定めるまで、一週間近くふらついていたわけだ。何かと悩みそうな子だったからなあ」
 いや、その間は、おそらくあちら側にいたのだ。そして二十三日にこちらに戻り、中央図書館で朝倉に出会った。自室に寄ったのも会計士に会ったのも、一両日中だろう。そして二十九日までにこちら側に始末をつけ、またあの館へ――。
「……これだけじゃ、何も解らない」
 勇介のつぶやきには、慎治が館に戻るまでの足取り、つまり自分も館に赴くための手掛かり、そんな意味合いがあったのだが、
「それはそうだ。問題は、その後、どこでどうしているかだからな」
 亮太朗は当然、別の意に受け取った。
「明日、その会計士当人に会える。取引中の慎治君の連絡先が判るだろう。それ以後の手掛かりだって残したかもしれん。明日になれば銀行筋も動かせる」
「頼む、親父」
 具体的な手掛かりがひとつでもあれば、自分で動ける。
 あの夜から、狭い檻の中で回し車の内側を駈ける栗鼠のような気分を味わい続けていた勇介の胸に、本来の闘志が戻ってきていた。

          *

 そして月曜、定時で帰宅した亮太朗は、約束どおり詳細な情報を携えてきた。慎治が宿泊していた銀座のホテル、資産を貴金属に換えた商社、そしてクレジットカードの使用状況や口座状況等である。
「おかしいだろう」
 夕食後、芳恵に話を聞かれないよう、勇介の部屋に腰を据えた亮太朗は、
「二十三日の朝まで、一週間どころか十日以上、なんのカードも使ってない。ATMでの小口出金も皆無だ。多少は持ち合わせがあったにしろ、部屋にも戻っていないんだろう? 着の身着のままで、ホームレスでもやっていたのかな」
「あいつは、ふだん金を使わない奴だから」
 もとい、使いたくとも使えない場所にいたのである。
「それより親父。この、二十六日と二十七日なんだけど」
 両日、カードで東海道新幹線の特急券を買っている。
「ああ。会計士に聞いたよ。一泊で東京を離れるから連絡は携帯へ、そんな話だったそうだ。しかし億単位のクライアントに、取引中何かあったら大変だろう。行く先を訊いたら、ほら、裏にメモしてある、その場所を教えられたそうだ」
「ヤマザワ化学工業、愛知工場見学。宿泊先、同研修所。所在地、愛知県額田郡幸田町――」
「ソニーの幸田工場の、山ひとつ奥だな。ソニーまでなら、俺も視察に行ったことがある。お前が小学校に上がる前だったか。ほとんど自然公園のような場所だった。ハンディカムの製造に適した土地だから、当然空気も水もいい」
「ヤマザワ……聞いたような気がする」
「そりゃ知らなきゃ嘘だろう。一般的な知名度こそ低いが、食品添加物や医薬品の原料加工では、世界有数の企業だからな。仮にも化粧品メーカーに内定した奴が知らなかったら、内定取消しもんだぞ」
 勇介はネット検索するため、卓上のノートパソコンを立ち上げた。
 その顔に蘇っている活気を見て、亮太朗が訊ねた。
「心当たりがあるのか? いや、一般常識じゃなく、たとえば慎治君の身寄りとか」
「――いや」
 勇介の知る限り、こちら側ではそこだけが、長いつきあいの内にも慎治と繋がらない唯一の場所である。だからこそ、新しい何かが期待できる。
 ヤマザワ化学工業は、亮太朗の言う世界企業にふさわしく、六言語に及ぶ何層ものWEBサイトを設けていた。
 トップページに躍る惹句に、勇介はいきなり目を奪われた。
『世界最大規模の超臨界流体抽出商業プラント』――すなわち『二酸化炭素抽出』である。
 リンクをたどると、その細目も蟻のようなフォントで網羅されていた。
『化学原料・製品等の不純物除去、濃縮』、『蛋白質ポリマーの分画、精製』、そして――『動植物原料からの油脂類・香料・薬効成分の分離精製』。
「――俺、行ってみる」
 短絡的に口走る勇介を、亮太朗が冷静にフォローした。
「もういない田舎を探すより、先に手近を当たったらどうだ。ヤマザワの東京本社なら、六本木ヒルズに入ってるぞ」





                         
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