1
後先も考えずカフェバーから飛び出し、あちこちの信号待ちに苛立ちながら駆け続け、十数分後、息を切らした朝倉は、六本木ヒルズ森タワー前のテラスに、頭を抱えてしゃがみこんだ。
「……なんてこったい」
勇介も、その傍らに立ちすくんでいた。
午後に訪ねたばかりのフロアが、案内板から消失している。正確に言えば、そのフロアを含めた数階が、ゴールドマン・サックス証券だけで占められているのだった。
深更を迎えても、一面に煌びやかな光を宿した超高層ビルを見上げながら、勇介は、むしろ朝倉よりも大きな衝撃を受けていた。
あの植草という好ましい人物は、今、どんな状況にあるのか――。
いや、植草だけではない。あのときフロアで働いていた従業員すべては――消えてしまったのか。それとも、ヤマザワ化学工業が存在しない歴史の中の、どこかに紛れて――。
「ここまでやるかい、九十九神……」
朝倉が呻くように言うと、
「そうでしょうか」
曽根が異を唱えた。
「その館が、朝倉さんのおっしゃるような超自然の存在だとしても、ここまでとんでもないイリュージョンが可能でしょうか。人ひとり消えるのとはわけが違う。これでは歴史そのものを変えていることになる」
一見ひ弱に見える曽根だが、ほとんど息は乱れていない。警察官として、体が出来ているのだろう。
「……慎治君や亜由美ちゃんを勝手に動かしたから、結果的に変わったのかも」
「いえ、それでも、おかしいのです」
曽根は冷静に続けた。
「その九十九神やら残留思念の未練が、慎治さんたちによって達成されたのなら、ヤマザワ化学が消える理由はありません。つまり震災後に限っては、岡崎さんの話のほうが、おかしい理屈になります」
「……言われてみれば、そのとおり」
朝倉は気を取り直し、自分に活を入れるように頭をひと振りすると、再び携帯を開いた。
岡崎京子のナンバーを探しながら、
「しかし曽根さん、あんた、思ったより根性座ってるねえ」
曽根は、あくまで飄々と、
「だって、こないだ目の前で、勇介さんや亜由美さんのイリュージョンを見てるんですよ。今さら何を見たって驚きゃしません」
「あたしゃ駄目だ。どんどん焦って頭がウニになる。その割り切りの良さ、半分あたしにちょうだい」
勇介も、曽根の意外な胆力に感心していた。
その視線に気づいた曽根は、照れ隠しのように、
「いやあ、神経が鈍いだけで……」
「ただのニブチンが、逐一整然と反論するかい。そりゃ根性――」
言いかけた朝倉の声が、ころりとお上品な司書風に変わる。
「どうも、お晩方でざいます。中央図書館の朝倉です」
『あらあら、あなた、なにかお忘れ物ですの?』
よかった、こっちは消えてない――岡崎老嬢の若やいだ声に、朝倉は心底安堵した。
顔を寄せてくる男ふたりに、あっちは健在、とOKサインを出し、受話音量を最大にしながら、
「いえ、こんな夜分に申し訳ありません。もうお休みでしたか?」
『年寄りがみんな早寝だとお思いになっているのなら、それは偏見というものですよ。まだ宵の口じゃありませんか。これからが宴の本番ですわ』
子機で話しているのか、老嬢の声には、背後の華やかなざわめきが重なっていた。慇懃無礼なシルバーレディースの大集会、そんな賑わいだ。
「どうも、お邪魔してすみません。実は、あの茉莉花館のお話で、もう少々お伺いしたいことが――今、よろしいでしょうか」
『あら、嬉しいわ。こんなお婆ちゃんの昔話に、そんなに入れこんでくださって。いっそ、何か、あなたがあの話をお書きになったら? 吉屋信子先生や川端康成先生のような、美しい少女小説がよろしいわ』
老嬢の通話が聞こえているのだろう、「あら、『少女の友』のお話?」「西條八十先生も、よろしゅうございましたわねえ」、そんな声々が背後に重なった。
『さきほどお引き留めして、皆さんに紹介してさしあげればよかったですわねえ。あの頃の風俗とか、それはお詳しい方が集っておりますのよ。なにせ皆さん、肌でその時代を知っていらっしゃる方ばかりですから』
加わってみたい気もするが、さすがに少々恐い。
「それは、ぜひ次の機会に。――とりあえずひとつだけ、お伺いしたいんですが」
『はい、何かしら』
「あの震災のあと、台湾のほうの茉莉花館や、春樹さんの事業の件なんですが」
『――そうですわねえ、ひと口に言えば、自然消滅ですわね』
「はあ……」
『当然、父も気にしていたのですよ。でも岡崎の家も、世間一般に比べれば裕福だったのでしょうけれど、しょせんそこそこの士族出です。あちらの事業を一手で引き継ぐような余裕は到底ございませんし、絹枝さんも、あの状態ですものね。それに、当分はなんとか農園の支配人任せで動くようなお話でしたので、そう、それならとりあえず様子見に回ろう――お恥ずかしい話ですけれど、そんなニュアンスで。もし債権がらみの話でも起こりましたら、まあ、代理人でも雇って、なんとか穏便に事業を閉じるしかございませんし」
「はい」
『そうこうするうちに、翌年の初夏でしたか、なにか台北のほうで、春樹さん本人が館に戻り、事業継続のために動きはじめた――そんな噂が聞こえてきたのです』
「――はい」
『もちろんご本人は、すでに埋葬されております。当然、まだ残る籍を使った騙りなのですが、これがなかなか不思議な偽物でございましてね。そもそも一昨年までの春樹さんならいざ知らず、その頃の春樹さんに成り代わっても、何ひとつ得などないはずなのですわ。なのに、逆に自分で法外な身銭を切って、なにやら盛んに頑張っているという――不思議な話でございましょう?』
「……あの、つかぬことを伺いますが、その偽物は、春樹さんだけですか?」
『と、おっしゃいますと?』
「つまり、その、絹枝さんの偽物とか」
『さあ――言われてみれば、女連れだったような噂もあったかしら。まあ、今も昔も、そうしたいかがわしいお仕事の方なら、その、いわゆる情婦くらいは、引きこんでいたのかもしれませんね』
「……はい」
『そうして、父もそろそろ実地に動かなければ、そう思いはじめていた矢先のこと、あちらの茉莉花館が、焼けてしまったという知らせが入ったのです。それも、よりによって街と農園の両方が、同じ夜に』
朝倉は息を呑んだ。
耳を寄せていた男たちも、思わず強張る。
『――えーと、聞いていらっしゃる? もしもし?』
「あ、はい、すみません。少々驚いてしまったものですから」
『はい、驚かれるのも無理はございませんわ。よくよく身寄りの悪い家――妙な言い方ですけれど、よくよく焼け落ちるさだめでも、背負った館だったのでしょうかしら』
「すると……その、春樹さんの偽物は……」
『それきりでございますわ。館の焼け跡からは、いくつも遺体が出てきたようなのですが、その頃の話ですから、誰がどうともはっきりせず――やれ抗日分子の襲撃だ、いや、闇金がらみで黒社会が腹癒せに――様々な噂が立ちましたけれど、まあ、抗日の方々もひとまず落ち着いていた頃ですし、やはり、ならず者たちの仕業だったのでしょうね。父も、そう思っていたようです。生前の春樹さんから、そんな武勇談も何度か聞かされておりましたし、その筋に負債があったという話も、耳に入っておりましたから』
「……はい」
『ほどなく跡地も農園も競売に付され――これは父の雇った代理人の仕事でしたが――そうして不思議な偽物も、あちらの茉莉花館たちも、それきり消えてしまったのでございますわ』
朝倉は、言葉を返せなかった。
その消沈が、電話越しでも伝わったのか、
『思えば、その偽物さんも、昔の春樹さんと同じように、なにか大きな夢に突き動かされていたのかもしれませんねえ。結局、自分は損をするだけで消えてしまいましたけれど、私、なんだか、どうか逃げおおせていてくれれば――そんなふうに願ってしまうこともありますのよ。だって、その方のおかげで、こちらの茉莉花館で暮らす絹枝さんに、大きな負債が降りかからずに済んだのですもの』
あたかも慎治の身を案じるように、岡崎老嬢は話を閉じた。
*
数分後、三人は、現在の茉莉花館を確認するため、深夜の環状三号線の歩道を、青山霊園に向かっていた。
勇介も、ふだん饒舌な朝倉も、それぞれの不安や思惑に耽っており、口を開かない。
曽根が、つぶやくように言う。
「この前、朝倉さん、おっしゃいましたよね。今回の件は、全宇宙の膨大な総量の中では、帳尻を合わせる必要もない誤差である――そんな話」
「前言撤回。って、こればっかしやん、我ながらつくづく情けないわ」
「やっぱり、その帳尻会わせが始まっているんでしょうか」
「そうかもしんない」
「しかし、やっぱり腑に落ちないんだなあ。自分も朝倉さんたちも、まだこうして事態の収拾を諦めていない。もし歴史とか時間とか、なにか、この世界の約束事のようなものが働いているのなら、なんで我々は、すべてを忘れてしまわないんでしょうね」
「ま、それこそ誤差のうちなんでしょうよ。あたしら風情が世間に何を吹いて回ったって、いいとこ病院送りになるだけだもん」
「それもそうですね」
曽根がうなずくと、朝倉は苦々しげに、
「世界の約束事か――。曽根さん、さっきあたしが店で言いかけたの、覚えてる? 『アカシックレコード』っての」
「はい、言葉だけは」
「まさに、それが『この世界のお約束』なのよ。『アカシック』ってのは、サンスクリット語の『アカシャ』から来てるのね。『虚空』とか『空間』、つまりこの世界、全宇宙。で、『アカシックレコード』ってのは、宇宙の歴史も人類の歴史も、始まりから終わりまでのいっさいがっさいが、あらかじめ、この宇宙空間というROMに記録されている――そんな概念。たとえばあたしら人間個人個人は、一見勝手気ままに生きてるように見えるけど、けして自由に歴史を紡いでるわけじゃなく、あらかじめ規定された歴史に添って、ただ自由にリアクションしてるだけ、みたいな」
曽根も勇介も、それは初耳だった。
「黴の生えた預言者や神秘家の世迷い言よ。あたしゃ信じない。RAMに追記される『残留思念』くらいは信じてもいいけど、未来まで記録されてて筋書きどおりにトレースさせられるんじゃ、たまんないわ。無慮数の選択肢と無慮数のエンディング、それが人生よ。だったら、世界だって宇宙だって無限にある。近頃の気の利いた宇宙論や量子力学や数学でも、そーゆーことになってんだから」
曽根は、しきりに首を傾げている。
「――もしかしたら、俺たちが気づいてしまったこと自体が、問題なのかもしれない」
勇介が、独りごちるように口を開いた。
「それは、どういう……」
目を丸くする曽根に、
「だって、俺が訪ねた午後までは、ヤマザワ化学は間違いなくあそこにあった。消えたのはそれ以降だ。もし俺たちが何もしていなかったら――たとえば俺が、先週殴られて帰ったあたりで尻尾を巻いていたら、そして部長や曽根さんも怯えて身を引いていたら、俺たちを含めてこの世界の誰も、矛盾自体に気づかなかったはずだ。そもそも帳尻なんて合わせる必要がないんです」
「なある……それもアリかもね」
朝倉が苦々しげにうなずいた。
「運命に逆らうな、長いものには巻かれろってか。あたしゃごめんだね。だいたい、ふたつの歴史が同じ世界に混在できるはずがない。きっとあたしらは、ねじれたふたつの世界の中で、あっちゃこっちゃしてるんだわ」
曽根はあいかわらず首をひねっていたが、ふと、傍らのコンビニに目を止め、
「なにか灯りを調達して行きましょう。残念ながら、今夜は懐中電灯を持って来てません」
「あんた、ほんとに落ち着いてるねえ。なんかムカつくぞ」
「す、すみません」
「謝るとこじゃないでしょ」
「すみません」
朝倉と勇介は、思わず緊張を忘れて苦笑した。
やがて、墓地の東の車道から入園し、例の柵囲いのある区画に下りる。
街路灯などほとんどない霊園のこと、車道を離れてしまえば、懐中電灯が頼りの闇路である。
探り当てた先の、柵の蔦を剥がし、恐る恐る、光の輪を奥に向ける。
「――よかったあ」
朝倉が、胸をなで下ろした。
「ぴかぴかのまんまだわ」
さほど強くないクリプトン球の光でも、館の木目は純白に輝いていた。
「あんたまでしょぼくれてたら、それこそバッド・エンドだからね。もう敵だか味方だかちっともわかんないけど、とりあえず、当分ぴかぴかでがんばっててちょうだい」
まるで館そのものと会話するように、励ましの言葉をかける。
その意味は、勇介や曽根にも理解できた。この茉莉花館の分身が精気を帯びている限り、あちら側の館や絹枝、もとい絹枝の思念との因果関係も切れていない。つまり慎治や亜由美も、可能性として、まだこちら側に繋がっているのである。
「で、お願いだから、お姐さんの言うことも聞いてちょうだいね」
朝倉は、なかば本気で館に懇願した。それから、芝居がかって大きく両腕を広げ、
「開け、ごま!」
こ、この人は――。
曽根も勇介も、呆れて成りゆきを見守った。
数瞬後、
「……ま、すなおに聞いてくれるようなタマじゃないか」
朝倉が自嘲したとき、
「俺のやるべきことが解りました」
勇介が、毅然として言い放った。
「は?」
朝倉と曽根の見開いた目にも気づかず、光に揺れる白い館を見つめながら、
「今さら諦めても、もう遅い。なら、最後まで諦めないしかない」
2
その深夜、日が変わってほどなく。
座敷の炬燵で、オン・ザ・ロックと缶入りピースを伴侶に自宅残業を続けていた亮太朗は、
「親父、気を悪くしないで聞いてくれ」
ようやく帰宅した勇介の第一声に、只ならぬ物々しさを気取り、訝しげにノートパソコンから顔を上げた。
「聞いたあとの気分は俺が決める。なんだ。言ってみろ」
「たとえば今、俺がこの家の財産相続を受けるとしたら、分与額はどれくらいになる?」
この馬鹿は何を言いだすやら――亮太朗は呆れ顔で、
「……俺を殺すんなら、十年待ったほうが、お徳用だぞ。平成梶尾の本番はこれからだ」
「今要るんだ。一刻も早く」
亮太朗は、勇介の顔色を見定めた。真意の欠片も想像できないが、短絡的な『馬鹿』ではなさそうだった。
「――ヤマザワで、何か解ったのか?」
勇介の顔に、安堵が浮かんだ。今回の異様な事態に直接関与していない亮太朗が、ヤマザワ化学の存在を記憶してくれているかどうか、ずっと不安だったのである。
「よかった……血のおかげかな」
「なんの話をしている」
改めて見れば父親の顔にも、梶尾宏傳の面影は、充分に宿っていた。
「親父、ちょっと検索してみてくれ。あの会社の企業情報」
勇介の迷いのない口調に促され、亮太朗は不承不承、エクセルからグーグルにリンクした。
氷の追加を頼むため、芳恵を呼びかけて、ふと、もう出かけてしまったのを思い出す。
芳恵は、日舞の発表会の審査員として京都に招かれ、週末まで滞在することになっていた。亜由美の一件が不透明なままなので、出かけるときも最後まで迷っていたのだが、義理のある家元と早くから約束していたため、抜くわけにもいかなかった。
亮太朗は軽く舌打ちして、検索を続けた。
曖昧だった亮太朗の表情が、ものの数秒で驚愕に変わった。
それからの数分、必死にキーボードとマウスを操る亮太朗は、勇介が物心ついて以来一度も見たことがないほど、取り乱しきっていた。
やがて、グーグルアースを立ち上げ愛知県額田郡幸田町を表示するに及んで、亮太朗は匙を投げ、ノートから両手を放した。
広大な化学プラントのあるべき場所には、ただ山林が広がっているだけだった。
亮太朗は、グラスのグレンリヴェットを一気に飲み干し、
「――こないだお前に渡したプリントアウト、すぐ持ってこい。いや、俺がそっちに行く」
ボトルを掴んで先に立つので、勇介は氷やグラスの盆を手に、後に続いた。
勇介の部屋で、慌ただしく一昨日のデータ類を見返す。
プリントの内容自体に異変はなかったが、亮太朗が裏にボールペンで直筆したはずの文字は、きれいに消失していた。会計士から聞いた、慎治の見学先である。
亮太朗は、じっくりと裏面を蛍光灯に透かし、なんの加工跡もないのを確認してから、
「……なんてこった。俺も、とうとう若年性アルツが来たか」
首を振り振り、勇介のついだグラスを呷る。
「親父が若年性なら、俺は幼年性か?」
「そんなアルツはない。お前は頭を打ったからだ」
「出る症状は同じか?」
「親子だからな」
不毛と言うより漫才のような会話を、いつまで続けてもそれこそ不毛と自覚したのか、
「馬鹿息子に訳知り顔で横に立ってられると、腹が立ってかなわん。さっきの続きを話せ。金で正気に戻れるのか?」
「残念ながら、正気の沙汰じゃない」
「いいから話せ。こうなったら、狂気の沙汰も金次第だ」
3
大正十三年、一九二四年五月末日。
この地では、すでに夏宵の台北市街――。
間宮春樹に晩餐に招かれ、茉莉花館を訪ねた工学技師・山澤学は、本土で一家を構えていた頃もめったにありつけなかった贅沢な美酒や酒肴を堪能したあと、持参した図面をテーブルに拡げていた。
「まだ完全ではありませんが、間宮さん、見て下さい。これならきっと、あなたの夢は実現できますよ」
上背は慎治の肩までもないが、武骨な体躯と知的な眼光を併せ持つ、いかにも明治生まれの技術者らしい男である。
慎治は、その緻密な設計図にざっと目を走らせ、予想を上回る山澤の入れこみ様に、思わず感嘆した。
「数日の内に、ここまでやって下さったのですか」
「こんなに面白い仕事はありません。寝る間も惜しいくらいです。二酸化炭素の気圧は、今のところ、あなたのおっしゃった一〇〇バールを想定していますが、それでも揮発性成分は充分に抽出できる。熱による変質も少ないですから、無敵の精油が量産できるでしょう。将来的には三〇〇バールまで上げたいですね。もし三五〇あたりまで上げられれば完璧なんですが」
山澤の卓越した本能――技術者でも科学者でも、重要なのは知識に基づく直観、つまり知的本能である――に、慎治は舌を巻いていた。一〇〇気圧という数値は事前に提示したが、三五〇という理想値は口にしていない。この時代では、技術的に不可能な数値と思われたからだ。慎治としては、あくまで現時点で、西欧上流階級のうるさ型が最高と認めてくれるアブソリュートを量産できれば充分だった。
「私には、こうした正式な製図を読む素養はありません。あなたを信じて、お任せします」
山澤の浅黒い顔に、率直な喜悦が浮かんだ。
慎治は、くつろいだ調子で続けた。
「それから山澤さん、別にお願いしてよろしいでしょうか」
「はあ、なんなりと」
「どうか、私に敬語を使うのはご勘弁ください。ひとまわりも下の若造じゃありませんか」
山澤は、恐縮の微笑を浮かべた。
「歳より何より、私にとって間宮さんは、やはり大恩人なのですよ。あの震災で全てを失ってから、生きる望みなど何ひとつなく、成りゆき任せにここまで流れてきたのですから」
「それは私も同じようなものです。いや、もっと薄弱な立場なのかもしれない。先だってもお話ししたように、とうの昔に間宮家からは放擲され、震災で死んだという噂が立てば、皆、喜んで鵜呑みにしたくらいだ」
「はい」
「ですから、あなたの再起がなければ私も再起できません。不出来な弟のようなものです。どうか、せめて『さん』ではなく『君』あたりで」
「――じゃあ、間宮君」
山澤は、面映ゆそうにブランデーのグラスを上げた。
「はい、山澤さん」
慎治も、乾杯に応じる。
ふたつのグラスが、軽やかに鳴った。
「それでは仕事の話に戻りましょう。試作機の製作も、続いてお願いできますか」
「承知しました。光栄です」
「その、できれば『ああ、仕方ない、やってやるよ』くらいで。着手金も、まだぎりぎりしかお渡しできていませんし」
山澤は苦笑しながら、
「うん、あれで充分だよ、間宮君。きっと秋口までには形にする。しかし、それで目論見どおりの結果が出れば、次は工場設備の形になるな。部品の一部は、どうしても米国、英国、あるいは独逸に発注するとして、少なく見積もっても五千や一万は必要になるだろう――なんて、いい気分でしゃべっているけど、内心、冷や汗ものなんだよ。私の焼けた工場の機械は、高くとも千円程度だった」
すると本番の発注に必要な資金は、おおむね数千万から一億二三千万――貨幣価値というものは一概に時代換算できないが、慎治の金銭感覚を春樹の感覚と照らし合わせれば、そんなところである。
「必ずなんとかします」
「大丈夫。試作が成功すれば、細部の特許だけでも世界に打って出られるよ、間宮君」
一度地獄を見た者同士、息が合い、意気も上がったところに、
「――失礼いたします」
黒いリネンの、はしたなくない程度に軽やかなシフォンドレスを纏った亜由美が、しずしずと酒肴の追加を運んできた。
「市場のお茄子を鴫焼きにしてみたのですけれど、山澤様、お口に合いますかしら」
「いやあ、これはいいですなあ、奥さん」
その盆に、皿だけではなく徳利や猪口も乗っているのを認め、山澤は相好を崩した。
「間宮さん――間宮君のような洋風でも、これをやるのかい」
慎治に、くい、と指を上げて見せる。
「根は日本人ですから」
今夜は、山澤を迎えるため、館の裏手は台北のままである。ジャスミンの残り香もささやかで、亜由美がテーブルに並べる皿から、甘味噌の芳ばしい匂いが鼻をくすぐった。
その香りだけでなく、髪を巻き上げた亜由美の淑やかな姿にも、慎治は目を細めた。流れるような衣装を含め、夕刻からずっと感心していることだった。芯の強さを隠しているのではない。それが滲み出ているから、なお淑やかさに華がある。
「それでは山澤様、どうぞ、ごゆっくり」
酌などせずに下がるのも、淑女の礼儀だろう。
その後ろ姿をしげしげと見送ってから、山澤が訊ねた。
「――ひとつ、不思議なんだが」
「はい」
「月中だったか、前の道から奥さんの姿を拝見したときは、確か髪が短かったような」
「鬘ですよ、鬘」
慎治は即座に答えた。当然、いずれ誰かがそんな話をすることは予想していた。
「あれは、気分に合わせてときどき髪を変えるんです。女の化け方は、狸より節操がない」
山澤も、得心して笑った。
*
亜由美が厨房に戻ると、やや年嵩の装いにエプロンを着けた絹枝は、オーブンの前に身をかがめ、火具合を弄っていた。
「ご苦労さま。亜由美様のご工夫は、お気に召していただけて?」
「ええ。山澤様は下町のお育ちだそうですし、慎治さんも昔から、お野菜は素朴なものがお好きでしたから」
「あらあら、わたくしも負けませんわよ」
何かにつけてそうした挑発的な物言いを続けながら、絹枝の口調にほとんど棘がないのを、亜由美はすでに悟っていた。特にあの晩、亜由美が慎治の前で子供のように泣いてしまってから、絹枝の亜由美を見る目には、一種の慈愛さえ感じられた。
「はい、あとは数分待つばかり――ふう、くたびれた」
絹枝はオーブン前の丸椅子に、さも気怠げに腰をおろした。
――幽霊でも疲れることがあるのかしら。
自分もエプロンを着けなおし、流し場で食器を洗いながら、亜由美は、火具合を見守っている絹枝の、出会った当初よりも影が薄くなってしまったような横顔を、ちらちらと気にかけていた。
絹枝と春樹、そしてこの館にまつわる過去の流れは、徐々にだが耳にできた。ただ、あくまで、あの震災の日についに帰宅できずこときれた夫と、その後も待ち続けた妻の想いまでであって、その後の経緯は判然としないまま、今へと直結している。おそらく絹枝も待ち続けるままに朽ち、今のような存在になってしまったのだろうと、この家の誰もが想っている。まるで上田秋成の『浅茅が宿』や、小泉八雲の『和解』――死してなお夫を待つ妻の健気な亡霊――そう思うと亜由美の心からは、絹枝に対する嫉妬や反感が、日々薄れていくのだった。
そして――絹枝の真意は知らず、亜由美がこの館で過ごしはじめてから、絹枝は夫たるべき慎治、いや春樹と、一夜も寝所を共にしていないらしいのである。慎治の中の春樹自身がそれに途惑っているのを、亜由美も薄々感じていた。
複雑な思いで洗い物を続けるうち、
「――寸法がぴったりで良かったですわ」
独り言のようなつぶやきに亜由美が見返ると、絹枝は目を細めて、亜由美の軽やかなドレス姿を眺めていた。
「裄も丈も、まるで、あつらえたよう」
「……ごめんなさい。何から何まで、拝借してしまって」
身ひとつで引きずりこんだのはどこの誰だ――そんな皮肉も、もう言う気にはなれなかった。むしろ少女の頃、嫁ぐ前の姉と衣類を貸しあっていたときのような、懐かしささえ感じている。
「春樹さんも、きっとお気に召したでしょうね」
「でも、慎治さんは、あまり女の身なりなど、気になさらない方ですから」
互いの夫、あるいは元カレを呼ぶ名前の違いも、今ではすっかり習慣と化している。
「そんなことはありませんよ」
絹枝は穏やかに窘めた。
「殿方ですもの、いちいち口にはなさらないだけで、ちゃんと見てくだすっておりますの。あちらの心がこちらから離れていない限りは、ね」
「そうでしょうか」
「はい。ですから女は、生涯、きちんと装っていなければなりません。『わたくしの心も、あなたから離れておりません』――そんな気持ちで」
「……はい」
「まあ、ときには殿方よりも、他のご婦人の目のほうが大切なこともありますけどね。なにせ負けてしまったら、殿方も世間も、なにかとままなりませんもの」
女ふたりが微笑を交わし、うなずきあったとき――。
唐突に、勝手口の扉が、まるで毟り取られるように荒々しく開いた。
思わず揃って悲鳴を上げると、
「混蛋《ホェンダン》!」
そんな、野太い声が聞こえた。
「真是的《ツェンシィテ》、請更謹慎認真《チングァンジンシェンレンツェン》!」
亜由美や絹枝にかけられた声ではなかった。
勝手口には、三人、いや、四人の人影があった。
恰幅のいい初老の男が、両脇を支える若者たちに、くぐもった罵声を浴びせている。『馬鹿が』『まったく、もっと丁重にせんか』――中国語なので、亜由美たちには理解できない。
軽薄な身なりの若者たちは、自力では立てない肥満体の男を苦労して支えながら、一方的な叱責に甘んじ、卑屈に頭を下げていた。その背後では、執事服の実直そうな中年男が、外の暗い横庭を気遣わしげに見渡している。
一見奇妙な集団だったが、主人らしい男が福々しい実業家の風体なので、亜由美も絹枝も、いったん気を鎮めかけた。しかし、その上着から覗く白シャツの太鼓腹が、おびただしい血糊で赤黒く濡れているのに気づき、再び同じ声の悲鳴を重ねた。
太った男は、自分の腹の惨状をさほど気にしていないようで、
「これは申し訳ない。驚かすつもりはなかった。――おや? 美しい夫人がいるとは聞いていたが、双子の奥方とは。間宮さんも隅に置けない」
悲鳴を聞きつけた慎治が、厨房に駆けこんできた。
「劉さん……」
絶句し、劉の腹の傷を気遣う慎治に、
「大丈夫。腹の脂を抉られただけだ。夜分にすまない、間宮さん。少々軒をお借りしたい」
劉を支えている手下のうち、やや年嵩のひとりは、かつて慎治を痛めつけた青年だった。しかし、今は怯えた窮鼠の顔である。
「いったいこれは……」
「堅気の衆に迷惑はかけない――などと言っても、もう遅いか。敗軍の逃将が、サムライの恩義を頼って来たのだよ。朝までかくまっていただければありがたい」
続いて山澤も厨房に顔を出し、その有様に立ちすくんだ。食堂で待てと言われたのだが、彼もまた、女の悲鳴にじっとしていられる性分ではなかった。
厨房の入口まで退いていた絹枝に、
「奥さん、何が……」
訊ねかけて、夫人の髪型も装いも違っているのに気づき、山澤はうろたえた。
見れば、先ほどの黒髪豊かな間宮夫人は、断髪の間宮夫人に抱かれるようにして、顔を震わせている。
「……飲み過ぎた」
そちらを取り繕う余裕もなく、
「とにかく奥へ!」
慎治は劉たちを招じ入れた。
と、勝手口の扉を閉めようとした執事が、弾けるように背後の宙に舞い、床に転がった。
「宗昌《ツンチャン》!」
劉は、倒れた宗昌に向かって若者たちの腕を離れようとしたが、膝が崩れて果たせない。
「伏せろ!」
慎治は叫んで、スライディングするように扉を閉め瞬時に施錠すると、身を翻し、執事の容態を検めた。
すでにこときれた宗昌の顎の下には、懐剣ともナイフともつかぬ、小ぶりの刃物が深々と突き立っていた。
プロだ、と春樹の記憶が告げた。アメリカの裏社会で、幾度か職業的殺人者の手口を見ている。小型ナイフの投擲で心臓など狙っても、めったに人間は即死しない。
「灯りを消せ!」
刹那、館の全ての灯火が落ちた。
混乱を極めている人々の中で、その不自然さに思いを致せるのは、床にうずくまり、亜由美を護りながら瞳に妖しい朧光を宿している、絹枝ただひとりだった。
私は絹枝そのものではない――春樹と再会して以来、おのれ自身疑いながらも次第に深めざるをえなかった自覚を、今、受け入れていたのである。
4
勇介と亮太朗の談合は、夜明け近くまで及んだ。
亮太朗も怪異の一端を確認したとはいえ、勇介の話は仮説が錯綜するばかりで、すんなり鵜呑みにできる内容ではない。元来合理主義者の亮太朗だけに、最低限の傍証がなければ『仮説』とさえ認められなかった。
勇介の体験、勇介が朝倉から借りてきた例の画集、梶尾宏傳たちの写真、そして亮太朗自らが納戸から持ち出してチェックした家系図――それらに加え、他の関係者の証言も必須である。
勇介からの電話を受けると、朝倉も曽根も、寝に就けるような精神状態ではなかったので、すぐさま深夜タクシーで駆けつけた。
そうして一同、梶尾家の応接間に集う。
ふだんの軽い口調など微塵も窺えない、司書らしく端正で順序だった朝倉の説明や、木訥な曽根が語る目撃談を、亮太朗はあくまで冷静に聞き終えた。
「――なるほど。来ていただいて良かった。勇介の話だけでは、感情的すぎて、今ひとつ納得できなかった」
「私自身、半信半疑の部分も多いのですが、今のところ、そう辻褄を合わせるしかないかと。『残留思念』やら『九十九神』やら、荒唐無稽に思われるかもしれませんが、あくまで相手方の存在感を既存の用語に例えただけですので、そこは適宜、ニュアンスを汲み取っていただければ」
一般常識人の代表格と思われる亮太朗を相手に、朝倉も極力言葉を選んでいる。
「いや、そうした超自然的現象も、ここまでになると、可能性として受け入れざるをえない」
亮太朗は、例のプリントアウトや、朝倉たちを待つ間に出力したデータを示し、
「先ほど財務省にアクセスしてデータベースを覗いてみましたが、ヤマザワの痕跡は、全経済界からみごとに消失しています。ああした世界企業を『存在しない』ことにするために、どれほど複雑な処理が必要になるかは、想像していただけますね。本社のみならず数十の関連会社から数千の取引先、それぞれに関わる資本の流れや物流関係、それら全てにヤマザワ抜きで整合を図るのは、どんなハッカーにも不可能です。やはり、初めから存在しなかったと判断するしかない」
「はい」
「となると――我々全員が同時に狂ってしまったのか、我々以外の歴史そのものが狂ってしまったのか――いや、単に私ひとりが悪夢を見ているだけで、目覚めれば、全てが元に戻っているのか」
「ごもっともです。実は私もここ数日、毎朝、そう期待しながら起き出しています。でも残念ながら、毎日毎日、夢に深入りするばかりですけど」
朝倉の実感のこもった言葉に、曽根もしみじみうなずいた。
「『現し世は夢、夜の夢こそ誠』――か」
亮太朗の口から、そんな言葉が漏れるとは思ってもみなかったので、朝倉は驚いた。それは江戸川乱歩が、生前好んで揮毫した言葉である。
なぜか亮太朗は、応接間の壁に掛かった全紙大の山岳写真を見上げ、
「――勇介。俺が大学時代、山岳部にいたのは知っているな」
「ああ、聞いてる」
「卒業前の冬休み、仲間といっしょに、あの写真の谷川岳に登ることになった。谷川は『魔の山』と言われるくらいで、実に遭難者が多い。もっともその多くは、一の倉沢の岩場とか、本格的な岩登りの連中だがな。俺たちはとてもそんな度胸はないから、そこそこのコースを選んだんだが、それだって、夏でも気を抜けば遭難する。とにかく気象の変化が激しい山なんだ」
曽根は、警察学校でレスキュー関係も学んだので、その山の怖さを知っていた。
「もう八百人近い方が、お亡くなりになっているそうですね。山岳では世界一の遭難者数と聞きました」
亮太朗は沈痛な顔でうなずき、先を続けた。
「――その日、俺は家を出る前から、腹の具合がおかしかった。本来なら、そんなコンディションで山登りなど言語道断なんだが、卒業してしまったら仲間は皆、別々の社会に出ることになる。次はいつ、いっしょに登れるか判らない。もしかしたら、これが最後かも知れない――そう思って、無理を押して東京駅で待ち合わせたんだが、結局、越後湯沢で病院に担ぎこまれる羽目になっちまった。急性虫垂炎だったんだな」
「うん」
「もともと、パーティーを組むような大袈裟な登山プランじゃない。俺ひとり抜けても、大勢に影響はない。まあ、親友づきあいの連中ばかりだったから、あっちもずいぶん心配してくれたんだが、こっちはたかだか盲腸を切るだけだからな。結局仲間には、予定どおり山に入ってもらった。俺はボンボンだったんで、連中よりも分不相応な携帯食料や装備を持ってきていたから、それも適当に分けて、持って行ってもらってな。自慢のピッケルは、一番馬の合ってた、戸塚って男に貸してやった。入部以来さんざ見せびらかしていた、ドイツ製のピッケルだ」
亮太朗は、壁の写真を、ふたたび懐かしげに見上げた。
蒼天の雪渓の下方には、古風な登山姿の若者が数人、意気揚々と笑っている。
他のメンバーよりもスタイリッシュなデザインのピッケルを、ざまあみろ、と言うように振り上げているのが、話に出た親友・戸塚なのだろう。
「で、翌日、俺が手術を受けた晩に――連中、吹雪に迷って遭難しちまった」
「……うん」
「そのとき俺は、手術の麻酔やら痛み止めやらで、ひと晩中朦朧としてたんだが――夜中に目が覚めると、山に入ったはずの仲間がふたりばかり、なぜかベッドの横に立ってるんだよ。戸塚と、もうひとり、久保って奴だった。奴らと何をしゃべったんだか、残念ながら覚えてない。惚けていたからな。まあ、いつものような馬鹿話しか、しなかったような気がする。で、翌朝目が覚めて、ああ、夢だったのか、と思いながら横を見たら、俺のピッケルが病室の隅に立てかけてあった。あの、戸塚に貸してやったピッケルだ。遭難の知らせを聞いたのは、その日の午後だったな。幸いほとんど救助されたんだが、戸塚と久保だけは、体力が保たず、夜のうちに凍死していた」
勇介も、朝倉たちも、ただ黙りこんだ。
「――律儀な奴らは、死んでも律儀だったってわけだ」
ありふれた夢枕の話、そう言ってしまえばそれまでだが、この状況で、この人物による、この話である。
勇介がつぶやいた。
「……知らなかった」
驚きと不服の、ないまぜになったような顔である。
「ああ。母さんにしか、しゃべってない」
「母さんからも聞いてないぞ」
「俺が止めた。『子は怪力乱神を語らず』――梶尾家の家訓だ。これでも生粋の武家筋だからな」
横で首をひねっている曽根に、朝倉が注釈を入れる。
「論語の一節よ。『子』は孔子様のこと。要するに、まっとうな人間は、超自然的現象や怪しげな宗教に関して妄りに口にするものではない、そんな意味」
「耳に痛いというか、現状、少々困ってしまいますね。口にするどころか、まっただ中にいる」
「いっさい信じるなと言ってるんじゃないわ。それを自分の責任逃れや、欲の種にするなってこと」
自己流に解釈してから、ふと亮太朗の真意が不安になった朝倉は、
「――ですよね?」
亮太朗は首肯した。
勇介も、渋々納得していた。
子供の頃に父親からそんな夜話を聞かされたら、ある意味、懐かしい思い出になった気もするのだが、片や父親独特の、虚実皮膜を越えた躾け方も身に染みている。
たとえば、勇介が物心ついて最初のクリスマス、亮太朗は、いきなり『この世にサンタクロースなどいない』と断言した。幼い勇介が、歳相応の夢を断たれて思わず泣きそうになると、その小さな頭を優しく鷲掴んで、『お前が大人になったら、自分でサンタクロースをやればいい』――そんな父親なのである。
「現実的に考えれば、単なる夢と勘違いが重なっただけなのかもしれない。麻酔や薬の副作用を思えば、全てが事後の捏造記憶の可能性もある。朝倉さんや曽根さんも、心当たりがありませんか。子供の頃の懐かしい思い出を、大人になって冷静に反芻すると、実は当時の夢や願望が現実に混ざりこんでいた、そんな経験はありませんか。私には、結構あります。特に幼稚園前の記憶には、そうした混在が多い。その頃の人間の精神は、良く言えば柔軟、悪く言えば無分別ですから」
朝倉たちは困惑した。亮太朗の真意が、掴めなくなったのである。
「とはいえ今回の件は、私としても、あくまで現実として対処したい。この四人――慎治君や亜由美さんまで含めれば六人、大の大人が揃って同じ夢を見ているはずがない。仮に、全てが私ひとりの妄想内の出来事だとしても、私はあくまで現実的に行動するしかない」
亮太朗が明言したので、朝倉たちは安堵した。
「それで、勇介、お前は何をしたいと言うんだ?」
「……呆れないで聞いてくれ」
「呆れるか怒るかは、聞いてから俺が決める。言ってみろ」
勇介は、思いきって答えた。
「あの館やあの女は、けして馬鹿じゃない。まともじゃなかったのは確かだけど、俺が行ったときも、なんというか、基本的には理屈に従ってというか、自分の欲求に従って合理的に行動してる」
「そのようだな」
「なら、過去の自分に何が足りないのかも、理解できると思うんだ」
「つまり――金か」
「ああ。役者はもう揃ったからな。慎治の事業が頓挫するのも、ヤクザだかなんだかに家ごと焼かれるのも、結局、金が続かなかったんだろう。俺は嫌われちまったらしいが、少なくとも敵じゃない。充分な貢ぎ物さえあれば、玄関くらいは開けてくれると思う」
「入ったあとは、どうするつもりだ」
「臨機応変に動くしかない。できれば慎治と亜由美を――いや、綺麗事はやめとく。最悪でも亜由美だけは連れて帰りたい」
亮太朗は、さすがに即答できず、勇介の面魂を、しばらく見定めていた。
やがて、黙って席を立ち、別室に消える。
朝倉が嘆息した。
「……なあるほど。確かに、あんたの家じゃなきゃ使えない手だわ」
「実は、部長の『開けゴマ』で、思いついたんです」
勇介の顔からは、ここ数日の険しさが消えていた。父親に話すことによって、自身の迷いも吹っ切れたのだろう。
「やっぱり呆れました?」
「なんのなんの。金は天下の回り物ってね。せいぜい使える奴に使ってもらわんと。あたしなんか、自慢じゃないけど定期預金全部崩したって、安マンションの頭金にもなりゃしない」
隣の曽根も、侘びしく同調している。
ほどなく、亮太朗が戻ってきた。
「急ぐなら、これを使え」
地味なグレーのICカードを、勇介に差し出す。
銀行名がプリントされているので、
「いくら使える?」
「そうじゃない。よく見ろ」
貸金庫のカードキーだった。
「高輪の三井住友に、金地金が預けてある。今のところ、キロバー二十本、三百グラムのスモールバー三十本――このところの相場だと、一億ってとこか。亜由美ちゃんの身代金としちゃ、まだ足りないかな」
勇介も見当がつかず、目顔で朝倉に訊ねた。大正時代の相場なら、朝倉の管轄だろう。
「……足りるんじゃないでしょうか」
朝倉は、おずおずと言った。
「たぶん今の四倍くらい、使いでがありますよ」
勇介の発想よりも、父親の決断力に呆れていた。
5
月光も、台北市街の灯りも、館の一階奥までは届かない。
真の闇と化した茉莉花館の厨房で、慎治たちは息を潜めていた。
裏庭にも、館の周囲にも、人の気配はまったく感じられない。しかし、確実に誰かがいる。
絹枝と亜由美を背後に護りながら、
「――何人いるでしょう」
囁くように慎治が問うと、
「見当がつかない。単独行動するような連中ではないが――」
劉も小声で、心苦しそうに答えた。
「最低ふたり、いや、ひとりが仲間を呼びに行けば、ひとり。しかし、初めから徒党を組んでいれば――最悪二十人以上」
つまり劉のアジトは、それだけの敵に一気に制圧されたのだろう。
居間の電話を試しに行っていた山澤が、そっと帰ってきた。慎治に並び、女性たちを護る態勢に戻りながら、
「駄目だ。線を切られたらしい」
絹枝と亜由美は落胆していたが、男たちは、やはり、とうなずいた。
「すまない、間宮さん。私が甘かった。これ以上、迷惑はかけられない」
扉に向かって身を起こそうとする劉を、
「待ってください」
慎治が押しとどめた。
山澤が、こっそり慎治の袖を引いた。出て行ってもらえばいいじゃないか、そんな表情である。
劉自身も意外に思ったらしく、
「サムライの恩義はありがたいが……」
「そんな綺麗事ではありません。この抗争の背景が知りたいのです。あなたが消えれば、それで済む問題なのかどうか」
「なるほど、君もなかなか策士だ」
劉は、外の気配を窺いながら、
「あれらは十中八九、青幇《チンパン》の連中だろう。義理や面子は表看板だけ、金のためなら蟻を踏むように人を殺す。上海では、国際租界の大立者さえ、見せしめのために襲ったほどだ。台湾では表立った動きはなかったのだが――おそらくこちらでも、何をやってもかまわないだけの後ろ盾が整ったのだろう。つまり、この地のお偉方に、根回しが済んだのだよ。お偉方にしても、我々より御しやすいからね。ドライに金だけで共存共栄を図れる」
山澤が、また慎治の袖を引いた。自分にも解るように説明してくれ、と言いたいらしい。
「青幇――上海の黒社会を、一手に支配している結社です」
現在、大陸で栄華を極める国際経済都市、上海。その魔都とも呼ばれる複雑な社会を、裏で掌握している組織があるらしいことは、山澤も耳にしていた。
劉が続ける。
「私が死んだ瞬間から、この地のそうしたビジネスは、そっくり契約書ごと連中の手に渡るだろう。問題は、君のような立場の負債者たちだ。もとより連中には濡れ手で粟、過去の元を取る必要さえないからね。先行きの返済が不確実な者ほど、過酷な取り立てを受ける。見せしめのために始末される者も出るだろう」
「では、あなたがこの場を逃れ、生き延びたなら?」
「日本本土から人を呼べる。奴らでも踏み殺しきれないほどの、活きのいい蟻をね」
劉は、血まみれの腹を、ふてぶてしく叩いて見せた。
「私も無駄に肥えてはいない。横浜、神戸、博多、近頃はこちらより手広くやっているよ。それも日本式でやっているからね。任侠、男伊達、義侠心――青幇のような血も涙もない守銭奴じゃない。最終的には本土に撤退せざるを得ないにせよ、時さえ稼げば、こちらの資本も本土に移せる」
まだ事情を把握しきれないらしい山澤に、慎治は断言した。
「あなたと詰めている新事業は、この人がいなければ頓挫します」
山澤は血相を変え、慎治に訊ねた。
「この家に銃はあるか?」
彼もまた、その事業に未来を賭けている。
「はい。奥の書斎に猟銃と拳銃が」
当時も民間人の銃砲所持は許可制だが、後世ほどやかましくはない。郵便配達人でさえ、金銭や貴重品の配達時、護身用の拳銃を携帯できた。
「なら、いざとなったら派手にぶっ放してみよう。威嚇にもなるし、この街中なら、きっと警察が駆けつける」
山澤が、かつて陸軍に徴集され東京砲兵工廠におり、各種の武器に精通していることは、慎治も聞いていた。そして慎治の中の春樹も、アメリカで銃器の扱いには慣れている。劉たちは言わずもがなだろう。
「――こちらへ」
*
書斎は窓からの月光を受け、厨房よりも明るかった。
慎治は、壁の隠し扉を開き、護身用の散弾銃を掴み出した。
「使えますか、山澤さん」
反動が強すぎて、細身の慎治には難物なのである。
「すばらしい。ブローニングのオート5だ」
山澤は垂涎するような顔で、それを受け取った。各部を点検する動作も、手慣れたものである。
ふたつある拳銃の内、米国で使い慣れた回転式《リボルバー》のスミス&ウエッソンM10を手にした慎治は、ふと思い直し、貰い物の南部式小型自動拳銃も片手に取ると、それぞれの銃把を劉たちに向けた。
「どちらか、お好きなほうを」
劉が目配せすると、あの若者が南部式に手を伸ばし、上目遣いに慎治を窺った。この前さんざん痛めつけた俺が貰っていいのか、そう訝っているらしい。
「請保護《チンバオフゥ》、劉大人《リウダァレン》」
慎治が中国語で言うと、若者は黙って頭を下げた。
それぞれの弾薬も、可能な限り携帯する。
絹枝と亜由美は、怖々と寄り添って、男たちの戦支度を見守っている。
「警察を呼ぶなら、早いほうがいい」
山澤は窓の横に顔を寄せ、そっと裏庭を窺った。
刹那、窓ガラスが弾け、びゅっ、と鈍い笛のような音が、一直線に大気を過ぎった。
続いて背後の天井近い壁に、黒く短い金属棒のようなものが、深々と突き立った。
短剣ではない。洋弓銃《クロスボウ》の金属矢《ボルト》である。
山澤は、自身の引き裂かれた頬にも、吹き出す血潮にもまったく頓着せず、
「ほら、あちらさんは静かにやろうと言っている」
これが一度すべてを失った人間の声か――慎治は改めて慄然とした。
「ならば、こっちで騒いでやろう」
外に銃を向けようとするのを、慎治は押しとどめた。
「いや、それはあくまで護身用に」
自分も劉も、現状、官憲の絡む騒ぎは避けたい。
「秘密の扉から逃れましょう」
絹枝と亜由美は即刻うなずいたが、他の男たちは怪訝な顔をしている。
「只者ではないと思ってはいたが、秘密の抜け穴まであるのか、この家は」
劉の感嘆を聞き流し、慎治は絹枝に振り返った。
「二階の広間を、あちらに移したい」
「――はい」
絹枝の感覚では、けして自分の意思が、館の変化に直結するわけではない。意思ではなく『想い』の部分で共鳴したとき、初めて館に変化が生じる。しかし、この状況なら、当然その願いは叶えられるはずだった。
*
踊り場のステンドグラスの月明かりを頼りに、階段を昇る。
慎治が先に立ち、背後に絹枝と亜由美、劉と若者たち、そして最後尾を山澤が護っている。
「抜け穴といえば、地下だとばかり思っていたが……」
劉が息を切らしながら言った。腹の出血は止まったようだが、足元はおぼつかない。
するうち、踊り場を越えるあたりで、劉ではなく絹枝が、眩暈を起こしたように大きくよろめいた。
とっさに横から支えようとした亜由美は、思わず悲鳴を上げそうになるのを、かろうじてこらえた。自分の両手が、絹枝の肩や胸に沈みこんでしまったのである。
たとえ生者とは違う存在の絹枝でも、これまでは、確かに人肌の弾力と温もりがあった。しかし、亜由美が一瞬感じたその感触は、なにか湿った靄のような、質感未満の希薄さだった。
亜由美の驚愕が伝わったのか、絹枝は瞬時に眩暈から醒めた。
同時に亜由美の手も、軽く弾かれるように、絹枝の手応えを取り戻す。
「どうした?」
慎治が気遣うと、
「あ、はい。つまづいただけですわ」
絹枝はさりげなく答えながら、横で強張っている亜由美に、目顔で懇願した。
言わないで。今は、これ以上、この人に心配をかけたくない――。
そんな心を汲んだ亜由美は、小さくうなずくと、以前よりも軽くなってしまったような絹枝の肩を支えながら、慎治に続いて階段を昇った。
そのまま、二階の広間の中程に出る。
華香漂う絨毯の上を、東奥に向かって進みながら、
「山澤さん、劉さん、驚かないでください」
慎治が布石を打つと、劉が首を傾げた。
「この素晴らしい香りのことかね?」
広間を満たす蒼々とした深海のような月の光が、街の月とはまた違った風情に変わっていることに、山澤も劉たちも気づいていない。
慎治は、露台に面する南の扉へと、一同を導いた。
閉ざされていた厚地のカーテンを引き、扉を開け放つ。
噎せ返るような茉莉花の芳香が、一同を包みこんだ。
絹枝と亜由美は安堵して、その懐かしい香りを深々と胸に満たした。
満天の星と月に映えて、眼前に広がる果てしない丘陵に、山澤や劉たちは絶句した。
「これは……」
「鼓南村の農園です」
山澤も劉たちも、一様に自失していた。しかし恐れや怯えの気配はなかった。猜疑を抱くには、あまりに美しい夢幻だったのである。
「間宮君……君は魔法使いか」
山澤が、ようように口を開いた。
「私ではありません。この家が、魔法の館なのです」
慎治は劉たちを露台に促した。
「説明している暇はない。あなた方は外に逃れてください。鼓南村なら、逃げ道はあるでしょう」
「あ、ああ。確かに伝手もある」
劉の決断は早かった。
「請急前進《チンジチェンジン》!」
躊躇している若者たちを叱咤し、
「那裡是桃花源郷《ナリシィタォファユェンヒャン》!」
慎治に指示されるまま、角の階段から裏庭に下りる。
さらに花壇を縫って南に進み、白い柵の木戸を抜けようとして、劉は立ち止まり、露台の慎治を振り仰いだ。
「――君たちは?」
「こちらの館で、街の噂を待ちましょう」
劉がうなずいて、別れを惜しむように手を上げたとき、
「什麼《シェンメ》!」
裏庭のどこからか、押し殺すような叫び声が響いた。
中国語で「何事だ」と驚愕するその声は、劉たちの声ではない。
同時に野外の光景が、禍々しい渦のように歪んだ。
遙かに続く星夜の農園を、台北の裏庭の暗い樹木や煉瓦塀が、穢すように侵食してゆく。
劉と、あの銃を譲られた青年は、とっさに木戸の外に身を躍らせた。
まだ残っていた茉莉花畑への小径に、かろうじて頭から飛びこむ。
しかしもうひとりの若者は、一瞬、反応が遅れた。
その背中に、容赦なく金属の矢が突き立つ。
ひゅう、と細い息を漏らし、若者は台北の雑木の幹に叩きつけられた。
農園の広がりはすでに消滅し、裏庭全体が台北に戻っている。
「絹枝!」
慎治が広間に身を翻すと、絹枝は床に頽れ、亜由美に抱きかかえられていた。
「絹枝さん! 絹枝さん!」
「……ごめんなさい」
絹枝は朦朧と首を振り、消え入るような声で言った。
「なんだか……目が……急に……」
亜由美は、絹枝の弱々しい息づかいを案じながら、
「お願い、消えないで……」
先刻のように手応えを失っていないのが、せめてもの救いだった。
と、東の出窓のガラスが、音をたてて砕け散った。
慎治たちがその部屋にいるのを、街路側の庭からも気取られてしまったらしい。
窓際に端座していた空色のテディベアが、破片に煽られるように弾き飛ばされ、亜由美たちの足元に転がった。
山澤が怒声を上げた。
「なにがどうなった! いや、そんなことはどうでもいい!」
散弾銃を手に、割れた窓に向かう。
「魔法が解けたのなら、予定どおりぶっ放すまでだ!」
慎治は東の窓を山澤に任せ、南の露台と広間中央の階段を、交互に警戒していた。この広間が台北の館に帰してしまったのなら、階下から敵が侵入してくる可能性もある。平成の港区に繋がる北面の外階段や戸口は、今は存在しない。
山澤は破れた窓の横に張り付いて、窓枠すれすれに何度か眼下を視認し、街路にほど近い繁みに見当をつけると、一気に正対し、立て続けに発砲した。
轟音とともに、植えこみの葉々が四散し、黒い人影が呻きながら転げ出た。
まともに散弾を浴びたらしい人影は、洋弓銃を振り上げたまま、壊れたマリオネットのように柵格子にしがみついた。
その正面の街路、ガス燈の下を人影が過ぎる。
敵ではなく、通りすがりの若いアベックのようだ。
「――さあ、悲鳴を上げろ。警察に走れ」
山澤が、独りごちるように言った。穴だらけで痙攣している男が、街路から見えないはずはない。派手な銃声も聞こえたはずだ。
しかし――アベックは、柵にもたれた人影には一瞥もくれず、睦まじい談笑の気配を保ったまま、街路を通りすぎてゆく。
「……なぜだ」
山澤は呆然とつぶやいた。
振り向いた慎治は、ふと、絨毯に転がっているテディベアに目を止め、思わず息を呑んだ。
亜由美も、その縫いぐるみの変容に気づき、声を失った。
金属矢で胸を射抜かれているだけではない。全身の毛皮が、まるで幾星霜を日に晒されてきた襤褸のように、みすぼらしく風化していたのである。
6
そして平成二十年、二〇〇八年二月七日、朝。
亮太朗の運転するダークグリーンのカルマンギアで、勇介たちは三井住友銀行の高輪支店に向かった。
高輪プリンスホテルにほど近いスロープから、地下駐車場にすべりこむ。
「ここで待ってろ」
助手席の勇介に言い置いて、亮太朗は車を降りた。
最新店舗の貸金庫は、カードキーと静脈認証の併用なので、亮太朗本人にしか開けられない。
「俺も行こうか?」
用意したふたつのボストンバッグを亮太朗に手渡しながら、勇介が訊ねた。帰りの荷物は、総重量三〇キロ近くになる。
「馬鹿にするな。たかだか両手に子供ひとり程度だろう」
亮太朗は意に介さず、地上店舗へのエレベーターに向かった。
ふだんから自分の五十肩を認めたがらない父親を、勇介は気遣わしげに見送った。
「面白い例え方ですね」
リヤシートの曽根が、感心したように言った。
「それに、面白い車に乗っている」
昭和四十八年に製造を終えた、フォルクスワーゲンのスポーティカーである。外車と言えば外車だが、当時からけして高級車ではなく、海外では『プアマンズ・ポルシェ』などと呼ばれていた。
「意地っ張りなんですよ」
勇介は苦笑して、古色蒼然としたダッシュボードを見やった。オリジナルのアナログメーター類に並んで、最新型のカーナビさえ車本来の風情に合わせ、旧式の小型ブラウン管のように擬態している。
「まったく、いつまで若いつもりなんだか」
呆れるように言いながら、ふと、自宅の古いアルバムの、一葉の写真を思い出す。レストアされたこの車を前に、亮太朗が片手に亮介、片手に浩介を抱え、誇らしげに笑っている写真である。そのとき三男の勇介は、隣で頬笑む母親の胎内にいた。
「あの親にしてこの子あり、ってね」
曽根の隣から、朝倉が茶々を入れた。
ほどなく亮太朗が、きりきりと取っ手の張りきった鞄を、両手に下げて戻ってきた。
内側からドアを開いた勇介に、
「今度はお前が運転しろ」
「おう」
勇介が体をずらすと、代わって亮太朗が助手席に落ち着く。
「実に頼もしい手応えだが――やっぱり、お前を呼ぶべきだった」
あくまでダンディーな表情のまま、両肩と腕を、歳相応に揉みしだいている。
脚の間に重ねた鞄は、嵩こそないが、やはり価値相応の重さだったようだ。
*
スロープから路上に出ると、先刻まで晴れていた空は、仄白い雲に覆われていた。
青山霊園に向けて、桜田通りから高輪麻布線を数分走り、新一の橋の交差点で環状三号線に左折する。
「おや」
亮太朗が、フロントガラスに身を乗り出した。
「まさか、ヒルズまで消えたわけじゃなかろうな」
ビル街の彼方にひときわ高く聳えているはずの、森タワーやヒルズレジデンスが見えてこない。
「違う」
勇介が眉をひそめた。
「霧だ」
いつのまにか路上に霧が漂いはじめ、彼方の高層ビル群を、乳白色の空に紛らわせている。
「妙だな。朝には乾燥注意報が出ていたぞ」
首をひねる亮太朗の背後から、
「どうやら、勇介君が正しかったようですね」
朝倉が、そう私見を述べた。
「……もしかして、部長には見えてませんか、この霧」
勇介が訊ねると、
「うん、まったく。――曽根さんは?」
「はい。薄曇りですが、視界はきわめて良好です」
曽根も遠慮がちに断言した。
「……私も、その館とやらに行けるのかな」
亮太朗が、呻くように言った。
「確かに霧が見える。勇介と同じだ」
朝倉がうなずいた。
「この一件に、梶尾家の血筋が関係しているのなら、可能性はありますね」
勇介は、刻一刻と濃さを増す霧に注意しながら、
「じゃあ、親父、この香りが判るか?」
「香り?」
亮太朗は、訝しげに鼻を蠢かせ、
「――いや、何も匂わんが」
「なら、やっぱり呼ばれているのは俺だけだ」
朝倉と曽根は、思わず顔を見合わせた。
「もしかして、勇介君……」
「はい。まるで、霧のジャスミン畑の中を走っているようです」
朝倉と曽根は、数日前の霊園での出来事を反芻していた。ふたりとも、あのとき同様、あくまで日常的な麻布十番の道筋と、都会の匂いしか認識できていない。
しかし勇介は、濃霧の中の運転に見切りをつけ、かろうじて窺えたコンビニの駐車場に、カルマンギアを乗り入れた。
「ここから先は、歩いたほうがよさそうだ」
すでに店のウインドーすら判然とせず、車止めに乗り上げるように停車する。
亮太朗は、足元の鞄を勇介に預けた。
「けっこう重いぞ」
「これぐらい軽いよ。俺は学校のベンチプレスで八十上げる」
「くそ、さすがに若いな」
本当のところ、いかに屈強な勇介でも、両手に十数キロの荷物を下げて長時間歩くのはきつい。しかし以前、体育会の連中のガテン系バイトにつきあった経験からすれば、なんとかなりそうだった。
亮太朗や朝倉たちも、奇妙な『見送り』のために、車から降りる。
朝倉は好奇心に堪えかねて、勇介に訊ねた。
「まるっきり霧しか見えないの? 何かこう、妙な景色とか、例の台湾総督府とか」
「いや、とにかく、もう歩道がやっと見えるくらいで――」
言いかけた勇介は、ふと口ごもり、
「――これは面白い」
「何?」
「今、霧の中を車が通りすぎました。バスにしちゃ、ずいぶん小さい。まるで古い映画の乗り合い馬車に、ボンネットをくっつけたような」
「うわ」
朝倉が感嘆した。
もとより朝倉や曽根の主観では、いつもとなんら変わりのないコンビニ前で、車や通行人を眺めながら、勇介と立ち話をしているのである。
「もしかして、円太郎バスかな」
「やっぱり古物ですか?」
「震災直後に導入された、路線バスの元祖よ」
勇介も、いつか交通博物館で見学した、似たような車種を思い出していた。
「おっと」
勇介が小さく叫び、跳ねるように身を引いた。
「何々?」
「いや、ちょっと車輪に擦りそうになって。――馬車だ。本物の馬が引いてる。幌馬車だ。二頭立てです」
「幌馬車はおかしいぞ。なんぼなんでも」
「……後ろにカルメンたちが乗ってます」
「は?」
「いや、すみません。あんな民族衣装の、古いラテン系の――。昔、スペインに行ったとき、部長も見ましたよね、あのオペラ。あんな感じです。でも、これはいったい……」
朝倉は勇介以上に当惑しながら、傍らの亮太朗に訊ねた。
「……あの、ちなみに今、梶尾さんは何を見ていらっしゃいますか?」
「確かに霧は濃いが――いつもの鳥居坂下のようだ。朝倉さんは?」
「いやもう、斜向かいに麻布十番公共駐車場があるなあ、そんな感じで明瞭に」
「少なくとも、場所は同じようですね」
三者三様、いや四者三様の光景を見ている中で、勇介だけが異質な世界に立っているのは確かだった。時代の齟齬だけではない。戦後に開通した環状三号線と同じ空間を、大正のバスが通っていたはずはないし、いわんやジプシーの馬車においておや、である。もしや勇介は、すでに茉莉花館そのものの記憶、あるいはそこに染みついた人々の記憶の中にいるのではないか――そう朝倉は推測していた。
「じゃあ、俺、行きます」
勇介が、両手の鞄をしっかり持ち直した。
「足元見えてる? チンケな円太郎バスでも、轢かれりゃ死ぬよ?」
気遣う朝倉に、勇介は悠然と頬笑んだ。
「大丈夫です。どうやら、お迎えが来たらしい」
深閑とした霧の奥に、人型の、ひときわ白濁した影が現れている。
「あそこに女がいます。ぼんやりとしか見えませんが――俺を見ている。たぶん俺を待ってるんだ」
勇介の視線を追って、朝倉たちも懸命に目を凝らす。しかし当然、朝倉と曽根には六本木ヒルズを頂く都道が、亮太朗には朧な霧の街が見えるばかりである。
「……絹枝さんかな」
「いや、亜由美でもない。外人みたいだ。古臭いロングドレスで――背の高い、白い女です」
朝倉は身震いした。
もしや、茉莉花館そのものの化身――九十九神。
「いけない。消えた」
白い女が、霧に溶けた。
退いたのでも、霧に隠れたのでもない。それ自体が溶けたのである。
勇介は、あわててその方角に歩みだした。
亮太朗も、霧の中に現れては消える現代の通行人たちを避けながら、その後を追った。
そして朝倉たちの追う勇介は、明るい歩道に行き交う雑多な人々の間を、なんのためらいもなく一直線に進んでゆく。通行人が避けているわけではない。気ままにそぞろ歩く人々の中、勇介の行く手に絶妙なタイミングで一筋の道が成立してゆく――そんなCG映像じみた状況に、朝倉と曽根は息を呑んでいた。
まもなく、霧の帷の彼方に、ふたたび女の姿が凝った。
先刻よりも明らかに薄く、精気を失っている。
その儚げな佇まいに、なにがなし切羽詰まった哀訴を感じとった勇介は、また消える前にと脚を速めた。
亮太朗が、遠ざかる背中に声をかけた。
「俺も行きたいところだが――」
勇介は立ち止まらず、つかのま振り返り、
「大丈夫。親父や兄貴たちほど細くないぞ、俺の腕は」
「女の不意打ちには負けたじゃないか」
「同じ相手に同じ負け方は二度としない」
確かにそんな息子だった。止めて聞くような息子でもない。
亮太朗は、おもむろにうなずいて、
「――まあ、いいか。代わりがふたりいるからな」
それから、こう付け加えた。
「でも、見ていてあまり面白くない。お前も早めに帰ってこい」
「ああ、なるべく――」
言い終えないうちに、勇介は、白昼の麻布十番から忽然と消失した。
同時にすべての霧も、文字どおり霧消した。
*
一瞬、勇介は、まるで長い夢から醒めたような透徹感を覚えた。
眩しいほどの、爽やかな青空の下である。
曖昧模糊とした霧の界も、幻のような女の姿も、瞬きひとつのうちに眼前から拭い去られ、瀟洒な屋敷町の甍の波を、初夏の風が渡ってゆく。
五月《さつき》の風に泳ぐ鯉幟――そんな懐かしい感覚が胸に蘇る。
勇介はいったん荷物を下ろし、冬着を脱いで肩に掛けた。
迎えの人影は消えていたが、歩を進める先に迷いはない。ジャスミンの香りの流れが、見えない道標のように先々を示している。
その流れに導かれるまま、武家屋敷風の長い築地塀に沿ってゆくと、不意に、昭和の戦前を思わせる雑貨店が現れた。
店先の路面には、つい今し方打ち水したらしい、湿った黒ずみが広がっていた。周囲に散った個々の水滴はまだ落ち着かず、ビーズを散らしたように、乾いた土の上を転がっている。しかし、暗い店土間の内に人の気配はない。
そんな静寂の巷、ジャスミンの香りは、屋敷と商店の間に隠れるようにして下っている石畳の細い坂から、たちのぼるように流れてくるらしかった。
勇介は、躊躇なく坂を下った。
たとえ夢魔の世界にしろ、そこにいる間は確かに現実である。
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