たかちゃん、おるすばん








     
いっかいめ   〜 森のくまさん 〜



「それじゃあ、ママは、夕方までおでかけしますからね。知らない人がきても、おうちに入れちゃあだめよ。おやつは三時。ちゃんとお昼寝するのよ」
「はあい、ママ。いってらっしゃい」
 たかちゃんは、もうすぐおっきいお姉さんになるので、ちゃんとひとりでお留守番ができます。


    ★          ★


 台所の椅子にちょこんとすわって、たかちゃんは、さっきからじっと、テーブルの上のケーキを見つめています。
 きのうの夜に、パパがおみやげに買ってきてくれた、不二家の苺ミルフィーユです。
 ほんとうはパパやママといっしょに食べたかったのですが、パパはいつもたかちゃんが眠ってからしか帰ってこられません。朝も、ママやたかちゃんが起きる前に、ひとりさびしくかいしゃにでかけます。
 ふけいきでざんぎょうてあてもでないのに、いちにちごひゃくえんしかおこづかいをもらえないのに、それでもひゃくえんきんいつではなく、不二家の苺ミルフィーユを買ってきてくれる、やさしいパパです。
 それではせめて、ママといっしょに食べれば楽しいだろうな、とも思うのですが、よのなかというものは、そんな甘い物ではありません。ママは、だいえっと、という、いっかのだんらんよりも、大事な仕事があるのです。
 さて、たかちゃんは、まだじっと、テーブルの上のケーキを見ています。
 さっきから、もう何時間もたったと思うのに、なかなか三時になりません。
 お昼寝もあとにして、ずっと三時になるのをまっているのですが、それでも時計の針は、さっきからずっと一時と二時の間で、ほんの少しずつ、ぴくりと震えているだけです。
 このままでは、テーブルの上がたかちゃんのよだれの海になって、ケーキは沈没してしまうか、はるか海の沖まで、流れていってしまいそうです。
 そういうときには、もうすぐおっきいお姉さんのたかちゃんですから、それなりに小知恵がはたらきます。
 たかちゃんは居間のクローゼットから踏み台をかかえてくると、時計の下に置き、その踏み台にヨイショとよじのぼり、猫みたいに背伸びして、時計に手をのばしました。その時計は、ママがリサイクルショップから買ってきた古い柱時計なので、ちゃんと前からふたが開くのです。
「……二じ、……二じ半、……三じ……」
 これでもう三時だもん、と、たかちゃんが時計のふたを閉めたとき、玄関のブザーが、ブザー、と鳴りました。これは、ごしょくやタッチミスではありません。パパがこのお家を買ったとき、それまでのちとなみだのろうどうを思い、さらに、たかちゃんがお嫁にいってもまだ続いているであろう、たがくのろーんのじゅうあつかんを少しでも軽くしようと、必要以上にひょうきんなブザーを注文してしまったのです。
 さて、たとえ、あおのたけしさんの声によく似た、ひょうきんなブザーの音でも、今のたかちゃんには、夜道でいきなりスタンガンをかまされたくらいの、いわゆる晴天の霹靂です。
 たかちゃんは、びっくりしたときの猫みたいに小さいからだをすくめ、それから、おそるおそるふりかえりました。
 あくじがろけんしたときの、おとなみたいな顔です。
 でも、たかちゃんは、いつまでも自分の恥ずかしい過去にこだわり続けるような、弱い女ではありません。とととととと玄関まで走り、ママにいつも言われているとおり、チェーンはかけたまま、少しだけドアを開けて、元気にご挨拶します。
「はあい、どなたですか」
 ドアの外は、いきなり、黒い毛皮でした。
 いつものように見上げても、まだ黒い毛皮です。
 下を見ても黒い毛皮です。
 でも、足元だけは、白くてりっぱにとがったおおきな爪が、指の数だけ並んでいます。
「こんにちは。むかしママさんにお世話になった、森のひぐまです。ママさんは、いらっしゃいますか」
 たかちゃんの目の前に、大きな黒いお鼻がおりてきました。
 思わず手をのばして、うりうりと撫でまわしてみたくなるような、たかちゃんごのみの、立派なお鼻でした。
「ママはおでかけ。夕方には帰ってくるの」


    ★          ★


 ママのお客様なんだ――そう思ったたかちゃんは、チェーンをはずして、お行儀よく、森の羆さんを、お家の中に招きました。
「どうぞ、おはいりください」
 森の羆さんは、人ではありませんね。だから、知らない人ではありません。知らない人は、お家に入れてはいけないのですが、森の羆さんをお家に入れてはいけないとは、一度もママに言われたことがありません。それよりなにより、このお鼻がとても素敵。
 でも、その羆さんは、一般常識というものを、とてもよくわきまえている羆さんでした。
「では、また来ます。いえいえ、ほんの通りすがりに、お邪魔しただけですから。これ、つまらないものですが、おみやげです」
 羆さんはそう言って、荒縄でくくった大きなしゃけを、たかちゃんにさしだしました。
 しゃけさんは、まだ元気にぴちぴちと、跳ねまわっています。
「ども、ありがと」
 ぴちぴちと跳ねまわるしゃけさんを両腕で胸にかかえて、お行儀よくお礼しながら、内心、たかちゃんは思いました。……ほんとは、ちょっとだけ、困ってるかな。
「それでは、貴子ちゃんでしたね、ママさんに、どうぞよろしく」
 羆さんは、そう言ってむこうを向きました。
 けれど、またすぐに、たかちゃんの目の前にお鼻を突き出して、
「それから、たかちゃん、知らないひぐまが来ても、お家に入れちゃあ、いけないよ」
 そう言って、たかちゃんの顔を覗きこむ羆さんの目は、何を考えているんだかよくわからない、野生動物の瞳そのものでした。
「……う、うん。あ、まちがえちゃった。はーい」
 たかちゃんは、もうすぐおっきいお姉さんなので、困ったときは元気よくご返事すれば、たいがいの問題には対処できるという、それくらいの世渡りは知っています。
 羆さんは、今度はにっこりと笑いました。
 そして、たかちゃんの顔を、大きなピンク色の舌でぺろりとなめてから、のそりのそりと、お外に帰っていきました。


    ★          ★


「えへへー、ひぐまさんに、なめられちゃった」
 ぴちぴちと跳ね回るしゃけさんをかかえて、たかちゃんは上機嫌で台所にもどります。
「♪ しゃっけさん、しゃっけさん、おっおきいのー ♪」
 作詞作曲編曲ともに片桐貴子の歌を口ずさみながら、とりあえずしゃけさんをテーブルの上に寝かせて、しゃけさん用のお皿をさがします。
 なにしろまだぴちぴち元気なのですから、冷蔵庫に入れてしまうのは、かわいそうです。
 第一、大きすぎて、冷蔵庫にはおさまりそうもありません。冷蔵庫におさまりそうにないということは、そんな大きなお皿も、一般的な日本の家庭には、存在しません。
 しゃけさんはテーブルの上で、なお元気に跳ね回り、ケーキのお皿をひっくりかえしてしまいそうです。
 たかちゃんは、あわててケーキのお皿をシンクの横に移すと、腕組みをしてしばらくしゃけさんを見つめていました。
 そして、やがてあるひとつの結論に達し、びしっ、と、しゃけさんを指さしました。
「しゃけさん、あなた、おっきい」
 結論は出たのですが、だからといって、それが解決策に直結するとは限りません。むしろ、結論が出た時点で満足してしまい、解決策は他人任せ、というのが、この社会では、ありがちなことです。
 でも、たかちゃんは、そんな国会議員のような子ではありません。
 とはいえ、まだおっきいお姉さんでもないので、とりあえず優先的な懸案事項である、三時のおやつ問題の処理を開始することにしました。
 まずは初期段階の基礎固めとして、大きな苺をぱくりと一口にほおばり、にんまし、と笑う。
 ちょっぴりおしりにクリームのついた苺さんの、甘味と酸味の絶妙な余韻をしばし楽しんだのち、パイ皮とクリームと薄切りの苺さんが幾重にも連なって織り成す、みごとな中間処理のアンサンブルを……。
 と、中間処理のただなかで、たかちゃんの手と口が、ぴたりと止まりました。
 糖分の摂取は、脳の働きを活性化させます。
 たかちゃんは、半分残ったケーキをまたシンクの横にもどすと、シンクにじゃあじゃあとお水をはりはじめました。
 どうでしょう、良い子の皆さん。皆さんには、ケーキを食べるのを途中でやめて、羆さんのお土産にすぎないしゃけさんのために敢然と立ち上がる、そんなことができますか? わたしには、とてもできません。
「♪ おっさかっなさっんはー、うっみのっなかー、うっみっはひっろいっなおっおきっいなー ♪」
 作詞作曲の一部に、他の著作者の作品との類似点が見受けられますが、そこはそれ、ちゃんとリズムセクションで別物っぽくしてありますから、ノープロブレムです。
 たかちゃんは、ひとりライブを続けながら、シンクに水をはりおわると、戸棚からお塩のびんを取りだしました。
 そして、大さじをかまえたところで、またたかちゃんの手と口が、ぴたりと止まりました。
『おっさかっなさっんはー、うっみのっなかー』よりも、『おっさかっなさっんはー、みっずのっなかー』のほうが、この世界の真実をより普遍的に表現できるのではないか、そんなふうに、気がついてしまったのでした。
 たしか、この前の日曜日にパパやママといっしょに見たテレビでも、しゃけさんは大勢の仲間たちといっしょに、元気に北国の川をさかのぼっていたはずです。
「……どっちが、いい?」
 たかちゃんは、テーブルの上のしゃけさんにたずねてみました。
 しゃけさんはさっきよりちょっと元気がなくなったみたいで、答えてくれません。
 もっとも、しゃべるとギャラが増額して、予算上キャラそのものをカットされてしまう心配があるため、遠慮していたのかもしれません。
 たかちゃんは、熟慮の末、大さじ3杯の添加を断行しました。
 そして、じゃばじゃばとシンクの水をかき回したあと、しゃけさんをかかえてきて、お水の中に放してあげました。
 放した、というより、思いきりほうりこんでしまった、というのが正しいのですが、これはたかちゃんとシンクの高度差を考えれば、やむをえない処置なのであって、けして某国の行政府のように、丸投げしたわけではないのです。
「……どお? お塩、ちょうどいい?」
 しゃけさんは、内心なにか思うところもあるのでしょうが、とりあえず水の中にもどれたので、いちおうほっとしているようでした。
「えへへー、しゃけさんのおうちい」
 うれしくなったたかちゃんが、3時のおやつの続きをしようと、半分残ったケーキの皿を手にしたときです。
 また、玄関のブザーが、ブザー、と鳴りました。
 こうなると、ふだんはもっぱらごきげん娘のたかちゃんも、まゆげとまゆげのあいだに、ちょっとだけしわをよせたりします。
「むー」
 それでも、お客様はお客様。たかちゃんは、おるすばん。ご用事だけは、聞いておかなければいけません。それをママが帰るまで覚えていられるかどうかは、また、別の問題です。
 たかちゃんは、こんどはケーキの皿をしっかりと手にしたまま、とととととと玄関まで、走っていきました。
「はあい、どなたですか」
 そして、ケーキの皿を、玄関の靴箱の上に置き、さっきみたいに、ドアを開きました。
 こんどのお客様は、ドアのすきまからでも、とてもわかりやすいお客様でした。
 ちゃんと、たかちゃんの顔の前に、お客様の顔があったからです。
 でもそれは、さっきのお客様よりも、ずいぶんと大きな顔でした。
 あらららら、やっぱしテレビってほんとなんだな、と、たかちゃんは思いました。
 そのお客様は、前の前の日曜日に、パパやママといっしょに見たテレビに出ていたのと、そっくりな顔をしていたのです。
「こんにちは。むかしアフリカのサバンナでママさんにお世話になった、アフリカライオンです。ママさんは、いらっしゃいますか」






                     
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