たかちゃん、おるすばん








     
にかいめ   〜 らいおんさん 〜



 ライオンさんのお鼻も、思わず手をのばして、うりうりと撫でまわしてみたくなるような、たかちゃんごのみの、立派なお鼻でした。
「ママはおでかけ。夕方に帰るの」
 ライオンさんは、人ではありませんね。そして、羆でもありません。ですから、知らない人ではありませんし、もちろん、知らない羆でもありません。
 それよりなにより、このお鼻がとても素敵。
「どうぞ、お上がりください」
 たかちゃんがチェーンをはずすと、ライオンさんは、のっしのっしと、玄関に入ってきました。
 ライオンさんは、なにしろサバンナ育ちでしたので、あまり日本の一般常識や、住宅事情には、くわしくありません。
 それに、ライオンさんのお土産が、玄関口でたかちゃんにあずけるには、ちょっと大きすぎたのです。
「これはおみやげです。とてもおいしいですよ」
 ライオンさんは、背中にしょっていたガゼルさんを、どさりと玄関の三和土に、転がしました。
「……ど、ども、あ、ありがと」
 たかちゃんは、しゃがんでガゼルさんのおなかのあたりを、そっとなでてみました。
 ガゼルさんも、ライオンさんといっしょに、この前のテレビに出ていました。たしか、ライオンさん一家の、お昼ご飯になっていたはずです。
 たかちゃんは、とってもやさしい女の子です。だから、わざわざしょってきてくれたライオンさんにはもうしわけないとも思ったのですが、やっぱり、こう考えてしまいました。……ガゼルさん、かわいそう。
 でも、たかちゃんは、とってもかしこい子です。……でも、これがきっと、テレビの人がいってた、じゃくにくきょうしょくのきびしいしぜんかいのおきて。
 そんな、悲しそうなたかちゃんの顔を見て、ライオンさんは、豪放に笑います。
「わははは、心配はいりませんよ。ちゃんとまだ、活きてますからね。ガゼルは、なんと言っても、踊り食いがいちば……」
 さいごまで聞かないうちに、たかちゃんは、思わずライオンさんの首に、抱きついてしまいました。
「ライオンさん、ありがとう」
「わははは、こんなによろこんでいただけるとは」
 おたがい誤解しあったままのほうが、幸せに生きられる、そんなことが、男と女の間には、数多く存在します。
 たかちゃんも、どさくさにまぎれて、気になっていたライオンさんのお鼻をなでてみるくらいには、したたかな女です。思ったほど柔らかくはなかったのですが、たかちゃんのてのひらではつつみきれないほどの、やっぱり立派なお鼻でした。
「じつはわたくし、こんどようやく就職先が決まりまして、昔お世話になったママさんに、ちょっとご挨拶だけでもと、おうかがいしたのですが。ああ、そうだ。貴子ちゃん、でしたね。たかちゃん、これも、お母さんにお渡ししておいてもらえますか」
 ライオンさんはそう言って、名刺を一枚、たかちゃんにさしだしました。
『タンザニア観光局 自然環境保護課 草原管理一般職員 雄ライオンNo.42』。
 そう印刷してあります。
「はあい!]
 たかちゃんは、まだカタカナと数字以外、ほとんど読めなかったのですが、大人の人や大人のライオンから、ちゃんとした名刺をもらうのは初めてだったので、またうれしくなりました。
「それでは、またおうかがいしま…………いやあ、成田からの道は、相変わらず混みますなあ」
 お帰りのご挨拶をはじめたライオンさんの言葉の調子が、なんだか、急に変わったみたいです。
 たかちゃんは、名刺から顔を上げて、ライオンさんの様子をうかがいました。
 ライオンさんは、ちょうど靴箱の上に顔を向けたところでした。その鼻先には、さっきたかちゃんが台所から持ってきてしまった、ケーキの残りのお皿が置いてあります。
「……さっきそこの煙草屋の前で、羆の奴にも会ったんですよ。やっぱりレンタで、青梅街道に出るっていってましたが、彼はたしか千歳空港だから、羽田ですか。羽田までは、どうなんでしょうなあ」
 なにをいっているのか、たかちゃんには、よくわかりません。
 でも、ライオンさんの言動に、なにかとても不穏な空気が漂いはじめたことは、まだおっきいお姉さんになっていないたかちゃんでも、さすがに敏感に感じ取ります。
「……一般職員なんて言っても、しょせん、田舎の、実を言えば契約ですわ。老後の蓄えを考えますとね、かわいい妻子に甘いものを買って帰ることもままならず、この前密猟者を食い殺してもらった特別賞与も、ホームセンターで自家発電機を買ったらそれでおしまい、それもこれが日替わりのうんとガソリンを食う安い奴で、それにしたってご近所ではうちが一番最後で……」
 ああ、この人、いや、このライオンさんは、ただ会話を続けるためにのみ、会話を続けようとしているのだわ。その証拠に、切実な内容を含んでいながら、言葉にはなんの感情も込められていない。ただ日頃の言外の無意識が、口から流れ出しているだけ。ああ、私ってなんて不幸な幼児。わたしの小さな日常に許された数少ない生きる意欲の糧を、この人は、いや、このライオンさんは、私自ら放棄するよう、しむけている……。
 たかちゃんは、そんなことはかんがえませんでした。あたりまえですね。でも、良い子のみなさん。たとえ、今は自分自身にさえ、自分の言葉で説明できなくとも、きっともっと大きくなったら、自分にも他の人にも自分の言葉で伝えられるようになる、そんな気持ちになったことは、ありませんか。はい、そこの、齢にしてはちょっと育ち過ぎの良い子、それから、そちらの、めっきり白髪の増えてきた良い子、うなずいてくれていますね。
「……それ、すごおく甘そうですね。甘いものって、実は、わたくし、好きなんですね」
 ついに来てしまった、と、たかちゃんは、諦念しました。おっきいお姉さんをめざすからには、たとえ自分を偽ってでも、しなければならないこともあるのです。
 たかちゃんは、ケーキのお皿を、ライオンさんの前にさしだしました。
「……食べる?」
 ぺろり。
 ただのひとなめで、半分のケーキの乗ったお皿は、ただのお皿になってしまいました。
「ああ、おいしかった。それでは、ごきげんよう。ああ、そうだ、たかちゃん。これからは、知らないライオンが来ても、お家に入れちゃあ、いけないよ」
 なにをいまさら、と内心思っても、そこはそれ、おりこうなたかちゃんです。
「はあい!」
 と、げんきにお返事します。
 ライオンさんは、上機嫌な足取りで、ご門のお外へ、帰っていきました。
 たかちゃんは、空になったお皿をながめながら、ライオンさんのざらざらした舌の舌ざわりを思いだし、ちょっと、ほっとしたのでした。
「……ライオンさんのベロ、お顔なめられなくて、よかったなあ」
 ガゼルさんは、玄関の三和土で、まだ気絶しています。
 たかちゃんは、ガゼルさんの胸のあたりに耳をあてて、ちゃんと息をしているのを、確かめました。
 それからお顔の方にまわって、
「おーい」
 と頭をゆすってみました。
 二本のきれいな角も、いっしょにゆらゆら揺れましたが、それでもガゼルさんは、目をさましてくれません。
 えーと、きぜつしているひとを、おこしたいときは……。
 たかちゃんは、テレビで見た色々な事を、思い出そうとしました。
 それから、とととととと台所までもどり、シンクのしゃけさんの無事を確認したあと、コップに水を入れて、こんどはそろそろそろそろと、玄関にもどりました。
 ガゼルさんのお口のなかに、そっと、コップのお水をたらしてみます。
 でもまだガゼルさんは、目をさましてくれません。
 たかちゃんは、ガゼルさんの前脚のほうにまわり、上側になっているほうの足の先をつかみ、ひっぱってみました。
「……よいしょ」
 微動だにしません。
 たかちゃんは、ガゼルさんに背を向けて、その前脚を持ったまま、かつぎ上げようとしました。
「……どおすこいっ!」
 びくともしません。
 たかちゃんは、ぜいぜいと肉体労働者のような息をつきながら、ガゼルさんの顔の前に、しゃがみこんでしまいました。
 ママが帰るまで、ここにいてもらってもいいのでしょうが、それでは、ほかのお客さんが来たときに、じゃまになってしまいます。
「おーい」
 よく見れば、ガゼルさんのお鼻も、羆さんやライオンさんほど立派ではないものの、手頃な大きさで、なかなかのお鼻です。
 たかちゃんは、ガゼルさんが寝たきりなのをいいことに、わしっ、と、そのお鼻をつかんでみました。
 これには寝たきりのガゼルさんも、さすがにびっくりしたのでしょう。ぴくりと耳を震わせたあと、ゆっくりと目をひらきました。
 草食獣特有の、なにかしら憂いをおびた、優しそうな瞳です。
「ここは……」
「こんにちわ。あたし、たかちゃん。あなた、ライオンさんのおみやげの、ガゼルさん」
「……また、生きながらえてしまいましたか。まあ、本来なら、あんな蒙昧なライオンの牙などにかかるほど、愚鈍ではないつもりなのですが、今回は、不覚をとりました。少々、思索に浸りすぎていたものですから」
 ガゼルさんは、ふだんから、難しい言葉でしゃべっているみたいです。
 でも、落ち着いた青年の声ですので、たかちゃんは、とてもきもちがいいと思いました。意味がわかるのかどうかと、それがきもちいいかどうかは、まったく別のことです。
 ガゼルさんは、そろそろと立ち上がり、それから、ゆっくりとまわりをうかがいました。
「……どうやら、東洋の風物のようだ。失礼ですが、お嬢さん」
「あたし、たかちゃん」
「それでは、たかちゃん、たかちゃんのお家では、ガゼルなどは、食されますか」
 やさしい声でいいきもちなのと、意味がわかるかどうかは、やっぱり、まったく別の事です。
「うー」
 おこまりモードに入ってしまったたかちゃんに、ガゼルさんは、やさしくほほ笑んでくれました。
「ごめんごめん。じゃあ、たかちゃんのおうちでは、ご飯のとき、ガゼルのお肉を、食べるかな」
 これならばわかります。
「うーんとね、鳥さん、豚さん、牛さん、お魚さん、あと、うーんと、マトン? あれ? マトンって、なにさん?」
「さあ、それは、お兄さんもみたことないな。でも、僕は、安心して良さそうだね」
「うん、だいじょぶ。パパもママもたかちゃんも、ガゼルさん、食べたりしないよ」
 たかちゃんは、ここで、大事なことに気がつきました。
 お客様を、玄関先に、立たせたままです。ほんとうはおみやげさんだったのですが、これだけお客様っぽいのですから、きっとお客様です。
「マアマア、ダイジナオキャクサマヲ、ゲンカンサキニオタタ……オタタタセ……」
「?」
 ガゼルさんは、ちょっと小首をかしげます。
「うーんと、オタタタタセ……オタタタタタセ……」
「お立たせして、かな」
「うん! どうぞ、おあがりください」
「はい、よく言えた」
 ちゃんと誠意だけは認めてくれる、やさしいガゼルさんでした。
 ガゼルさんを応接間に案内しながら、たかちゃんは上機嫌です。
「えへへー、ガゼルさんに、ほめられちゃった」


    ★          ★


「はいどーぞ、どーぞおすわりください」
 ガゼルさんを応接間に案内したたかちゃんは、わくわくしながら、ソファーをすすめます。
 ガゼルさんは、少しこまった顔をしています。
「僕は、長椅子のほうは……体型の都合で」
 そういえば、たしかにたかちゃんの見たテレビでも、椅子に座っているガゼルさんは、いなかったみたいです。
 たかちゃんは、せっかく応接間にお通しできるお客様が来てくれたのに、ちょっとつまんないと思いました。でも、まだまだ、できるお仕事はたくさんあります。
「コーヒーになさいますか。それとも、おこうちゃ?」
 こんども、ガゼルさんは、少し困った顔をしています。
「そ、それじゃあ、お水と、あと、草か潅木の葉がありましたら、おねがいできますか」
「……カンボクって、なあに」
 こんどは、たかちゃんのお困りの番です。
「ごめんごめん。たかちゃん、どうかおかまいなく」
 たとえお客様がおかまいなくと言っても、なにがなんでもおかまいしてしまうのが、お客様に対する正しいお仕事だと、いつもママを見ているたかちゃんは、よく知っています。
「お水、いっぱいあるよ。草も、たぶん。」
 そう言って、たかちゃんは、台所に下がっていきました。
 あとに残ったガゼルさんは、唇の端に、微笑を浮かべます。
『ふふ、子供というものは、まったくかわいいものだ。お客様ごっこ、それとも、お店やさんごっこでも、しているつもりなのだろうな』
 もしガゼルさんに前髪があったら、ふっ、と掻き上げてみたりするところです。
『私にも、たしかに子供のころがあった。あの大草原を、なんの憂いもなく、駆け回っていた日々。しかし、所詮、食物連鎖の一部にすぎないガゼルにとって、追憶や郷愁に、なんの意味があるというのだろう。私は何を思い何を為せば、ガゼルであることを越えることができるのか…」
 ふだん草ばかり食べているだけあって、思索の方向も、きわめて穏当なようです。
 その頃、台所に下がったたかちゃんは、冷蔵庫から取り出したホウレン草とキャベツとレタスを、ガゼルさんが食べやすいようにと、むしってお皿に盛りつけていました。
 ほんとうは、包丁を使って、とんとんとんとん、の練習もやってみたいのですが、それはおっきいお姉さんになってから、と、ママにもパパにも、まだゆるしてもらえません。
 たかちゃんが、こんなもんかなあ、と、お皿のお野菜の山を前に、腕を組んでチェックしていると、玄関のブザーが、またまた鳴りました。
「どなたか、お客様のようですね」
 ひょうきんなブザーの音に、思索の腰を折られたガゼルさんが、応接間から、声をかけます。
「はあい、ちょっと、おまちくださーい」
 たかちゃんは、あわててお盆をかかえて、まずは、先客のガゼルさんに、おかまいの続きです。
「さあ、どうぞ、ごゆっくり、めしあがれ」
「あ、ありがとう」
 ガゼルさんは、コーヒーカップに入ったお水と、お皿に山盛りのお野菜を前に、これはちょっとまた、考えるべき命題が生じてしまったなあ、と思いました。
 それでも、やさしいガゼルさんのことですから、
「知らないガゼルは、お家に入れちゃあ、いけないよ。ライオンやチータやハイエナは、知ってても、絶対入れちゃあ、いけないよ」
 ちゃんと、たかちゃんへのご注意も、忘れません。
「はあい」
 たかちゃんは、またまた、元気にととととと玄関に走っていきました。
 えーと、さいしょがひぐまさん、つぎが、らいおんさん。おみやげは、しゃけさんと、がぜるさん。だったら、つぎは、ぞうさんがいいな。でもって、おみやげは、バナナさんがいいな。
 しかし、期待という感情の八割がたは、裏切られるべく存在するものです。
「はあい、どなたですか」
 たかちゃんが、忘れずにチェーンをかけたままドアを明けると、お外は、ちょっと変でした。
 まず、お客様がいません。
 それに、いつも庭のすぐ向こうに見えるはずの、お家の門もありません。
 そのかわり、なんだかでこぼこと灰色っぽくて茶色っぽい、ママのトカゲ皮のバッグを一面に広げたようなものが、庭先でゆらゆら揺れています。
 首をかしげるたかちゃんに、お二階よりも高いところから、お客様の声が聞こえてきました。
 のんきそうな、もごもごとなにかお口にくわえているような、でも、とても大きい声でした。
「こんにちわ。むかしサイトBの相撲部屋でママさんにお世話になった、ティラノサウルスでごわす。ママさんは、いらっしゃいますかいのう」






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