【1】 浪漫するかばうまさん
ようやく恵子さんと入籍して孤独死候補から脱却したのが初夏の話で、しかし新居が決まった頃には、もう冬になっていた。
ことほどさように、貧乏人の人生と言うものは慌ただしい。転居費用など一銭もないぞ、などと思い悩みながら、相変わらず過労死寸前のノルマをこなしていると、夏のボーナスやら秋の決算ボーナスやらで、命が縮まったぶんの報酬は確実に口座に貯まる。そう、泡沫デジタルプリント・チェーンの雇われ店長稼業にすぎない俺でも、この飽食の国の中年男として、相応の年収は得ている。ただ三年前までは、その大半をろりおた関係の散財に回してしまっていただけなのだ。そしてこの二年ほどは、たかちゃんトリオに食いつぶされていただけなのだ。
新居は俺の職場のあるターミナル駅と、恵子さんの職場である三浦家、つまりゆうこちゃん家のある青梅駅の中間あたりを探し回っていたのだが、結局間取りやら敷金やらの関係で、青梅駅から徒歩十五分の安賃貸マンションに決まった。なんのことはない、お互いの古巣から徒歩五分、以前俺が住んでいた安アパートや、恵子さんが住んでいた三浦家家政婦寮の、すぐ近所である。
三浦家は皆様ご存知のように、日本有数の大財閥の総帥に位置している。その家名自体はマスコミ等にあまり流れないが、それはあくまで巧みな資本構成の為せる技で、実質的にはこの日本において、世界経済におけるロスチャイルドやロックフェラーのような存在と思って間違いない。ただそれらユダヤ系財閥のような、獅子の奢りとハイエナの貪欲さの両翼を、剥き出しにしていないだけである。だから恵子さんの寮の家具調度などは全て雇主負担の備品であり、引っ越しで持ち出せる大物はほとんどなかった。
一方の俺は、住宅手当が月に僅か一万五千円という、いつつぶれてもおかしくない弱小企業の社員である。当然、安アパートの家具調度など、ペコペコスカスカの組立式家具と、量販店のチョンガー向け特売家電だけだ。なんとか新居に置いて恥ずかしくない程度の物件のみ持ち出し、あとは本社紹介の運送業者になあなあで始末してもらって、ほとんどの夫婦生活用品は、新たに用意することになる。で、俺の貯金は、それだけで残高三十万を割った。四十面下げた男が、ようやく嫁をもらった時点で、ほぼ無一文からの再出発である。それを承知の上で嫁に来る女性というのは、有難いより、むしろ怖い気もする。
いないだろう、普通。
まあバツイチであるとか、見えない背後霊もコミで嫁に来るにしろ、前の旦那はとっくに再婚してほぼ音信不通状態だそうだし、背後霊だって俺にはふだん見えないのだから、現段階でとても三十過ぎには見えない可憐な女性が俺と生涯同居してくれるらしい、そして俺の預金残高の十数倍は貯金がある、それだけで、俺はなんだか怖い。幸せすぎる気がするのだ。
そろそろ気づかれた方も多いと思われるが、そう、俺は今、全霊をもって力の限りノロけているのである。ごめん。
★ ★
「……あら」
お互い四連休を取って引っ越しを決行した師走の街の夕暮れ間近、ちらほらと小雪が舞い始めた。
「お引っ越しの日に、初雪。なんだかとってもロマンチック」
俺もそう思う。この際、お互いの歳は関係ない。
引っ越しそのものが一段落するともう午後遅くで、夕飯の買い物のために駅前のスーパーに出、ついでに足りない小物の買い物なども済ませた俺たちは、小雪の中を新居に向かった。いつもの年なら、クリスマス商戦まっただ中のこの時期に連休を取るなど夢のまた夢なのだが、今年は某駅前に某有名カメラ量販店が出店したため、その駅にあった某弱小チェーンの支店――つまり俺の仲間の店があっさり撤退してしまい、正社員がふたりばかり宙に浮いているのである。こっちの新規出店予定は来年二月までないので、俺はここを先途と助っ人を頼り、溜まりに溜まった有休を、本部に睨まれない程度に消化するつもりだった。
青梅駅前はどこにでもあるベッドタウンのロータリー、そんな感じだが、旧青梅街道に折れると、そこはもう昭和レトロの色濃い個人商店が続く。昭和レトロそのものをウリにしている町並みなので、あちこちに古い映画の絵看板が飾られ、路地の角の街灯などもそれらしくデザインされている。その街灯を今しがた彩った赤みをおびた光に、恵子さんの吐く息が白く漂う。俺は両手に下げた手提げ袋をまだ濡れていない舗道の路肩に下ろし、ウインド・ブレーカーを脱いで、恵子さんの肩にかけてやった。薄手のベージュのコートだけでは、いかにも寒そうだ。
「大丈夫?」
ベストだけになった俺を心配そうに見上げるその視線は、やはりどう見ても三十過ぎには見えず、頭上の絵看板に描かれた昭和中期のしっかり者の少女、そんな感じだ。当節の娘たちの多くのように、均整のとれた肢体に幼児のような頼りない顔がくっついているのとは正反対で、小柄でふくよかな重心の低い体に、生活感に溢れた表情が乗っている。俺が餓鬼の頃、田舎で見上げていた憧れのお姉さん達の姿だ。そう、俺にとってのろりとは、昔も今も変わらぬ幼女から、昭和三十年代の女子中学生まで、そんな価値基準なのだ。これ見よがしに半裸で踊る昨今のジュニアアイドルなど、ただのウーパールーパーに過ぎない。
「平気」
俺はそう笑って、また荷物を持った。実際、平気なのである。北の雪国に生まれ育った身であり、かつ皮下脂肪に恵まれた――早い話が大デブなので、東京近郊の市街地なら、冬場でもすぐに汗をかく。
道筋の古びた写真館のウインドーに、幸せそうな花嫁が微笑している。レースの大輪が、冬薔薇のように清く健やかだ。
「……ほんとうに、いいの? 披露宴」
俺は入籍前に一度だけ訊いたことを、その日もう一度だけ、訊いてみたかった。
「あんなの、一度だけでたくさん。だいたい、もうこの歳ですもん」
あっけらかんと返す言葉にためらいはないが、むしろ、俺の経済状態を慮ってくれているのだろう。ウェディングドレスの花嫁を、世間に見せびらかす金がない。金を借りる親もいない。
「それより、早く子供作らないと。家もやっぱり、欲しいでしょ?」
ううむ、やはりこの女性はろりではなく、あくまで大人の女なのだ――俺は少々寂しい気がした。
「……でも、落ち着いたら、あそこで写真だけ、撮ってもらいましょうか」
恵子さんは、通り過ぎた写真館を見返った。
「貸衣装の看板も出てる」
そう、それくらいの予算なら、ボーナスの残りで――俺はちょっと嬉しくなった。
まあどっちみち、青年時代からの夢想、ウエディングドレスの新妻をバックからナニする、そんな夢は、自前の衣装を買えない限り不可能なのである。
やがて行く手の道筋に、長岡履物店――くにこちゃんの家が見えてきた。まるで映画『三丁目の夕日』のセットのような燻り具合だが、紛う方なき現役の店舗兼家屋だ。
「お嬢様、まだ遊んでるかしら」
初夏の騒動以来、たかちゃんとゆうこちゃんは放課後になると、根気よくくにこちゃんの手伝いを続けている。休日にはほとんど入り浸り状態らしい。表向きはくにこちゃんの妹・ともこちゃんの子守りということになっているが、要は赤ん坊を玩具にして、勝手気ままに遊んでいるのだろう。ともこちゃんもあのトリオの玩弄に負けず育つとすれば、さぞ強靱なろりに育つに違いない。
日暮れも近いので、ゆうこちゃんがまだ遊んでいたら帰宅を促すつもりなのか、恵子さんはその木造店舗の粗末な土間を覗きこんだ。サンダルや運動靴や下駄など、どう見ても平成の靴屋とは思えない品揃えの棚の奥に、これまた古風な障子戸が、暖かそうに色づいていた。店を見守るため真ん中あたりはガラスになっており、奥の間の炬燵から、くにこちゃんのお母さんがにこやかに会釈した。それがどうやら赤ん坊に母乳を与えている最中らしいので、俺は会釈を返しながらあわてて視線をそらした。一見下町の貧しいおかみさんのような身なりでも、実は鄙には稀な美女なのである。俺ひとりであれば、こっそりその豊かな乳房を垣間見ようと画策するところだが、隣の恵子さんに後でシメられてはかなわない。
「今日から、お外で遊んでるんですって」
炬燵から手を伸ばし、障子を引いて声をかけて来たのは、くにこちゃんのお母さんではなく、なぜかたかちゃんのお母さんだった。
「私も連れて帰ろうと思って、寄ってみたんですけど」
駅前のスーパーの、パート帰りなのだろう。
圧倒的な美女がふたりで所帯じみた炬燵を挟んでいる姿に、俺はなんだか一瞬非現実的な目眩を覚えた。それぞれの旦那の懐具合や顔面造作を思えば、ここまで「男は顔や甲斐性じゃない」と悟れる美女が揃っているここ青梅という町は、当節異常と言っていい。まあ俺の隣に恵子さんがいること自体、すでに異常なのだけれど。
胸を整えたくにこちゃんのお母さんの話によると、ともこちゃんの子守問題は、もう解決したらしかった。旦那さんの本業――伝統的な和履物を造る職人芸が、某財団の補助対象となって、なんと通いの弟子がふたりもできてしまったのだそうだ。そういえば土間の脇、作業場らしい引き戸の奥から、何やら職人言葉のような指示の声が聞こえる。これで今まで夫の手伝いばかり強いられていた奥さんも、子育てや家事や、店の世話に専念できるわけだ。
「善し悪しだわねえ」
たかちゃんのお母さんが、笑いながら言った。
「いつもここにいてくれたほうが、ほんとは安心だったのに。また三人で、糸の切れた凧になっちゃうわ」
三人の女性は、微妙な苦笑を交わした。母親としてあるいは事実上の乳母として、娘たちをめぐりなんかいろいろあった末に、すっかり気のおけない仲になっているようだ。
「まああの三人なら、心配ないでしょう」
俺は断言した。実際、あの三人にどんな災厄が降りかかったとしても、最終的に犠牲になるのは『災厄』の側に違いない。
★ ★
ふたりの母親に別れを告げて、俺たちはまた家路についた。
新居のマンションは、長岡履物店からほんの数分の、旧青梅街道沿いにある。湿った小雪はさらさらの粉雪に変わり、鄙びた旧街道を覆い始めた夜の帷《とばり》を、極めて浪漫チックに演出している。
「このぶんなら、今年はホワイト・クリスマスだね」
自分の息が白ければ白いほど、俺の胸は暖かかった。
恵子さんはそれに答えず、小さな声で、ビング・クロスビーのあの歌を口ずさみ始めた。
ああ、このぶんなら、今回の『よいこのお話ルーム』番外編は、果てしなく小市民的かつ虫のいい新婚物語にシフトして行ってくれるのではないか――などと、つかのま期待して恵子さんの白い歌声が雪夜に溶けこむ様を堪能していた俺の眼に、ふとなにか、とてつもなくいやあなものが、映った気がした。
恵子さんも歌うのをやめて、街道の向こうから近づいてくる大きな影に、眼をこらしている。
体長二メートルほどの巨大三毛猫にまたがった、狸だかアライグマだかなんだかよくわからない生物。
そしてその猫が引いている、飾り屋根の屋台車。
「お晩方です。おいしいバニラシェイクはいかがですか?」
あああああ、そうだったのだ。
やっぱりこの世界は、どーがんばっても、そんな非常識な世界観だったのだ。
「冬季限定のドドンパ・シェイクもありますよ」
この寒空に、いったいどこの誰が露天でそんなシロモノを啜ると言うのだ。
俺と恵子さんが揃ってふるふると頭を振ると、バニラダヌキ――いや、冬毛の色合いから見て従弟のミントダヌキか、あるいはハトコのピーチダヌキか――は、あいかわらず何を考えているんだかわからない円らな瞳で、さしたる失望の色も見せず、ぺこりと頭を下げ、駅方向に悠々とすれ違って行った。
俺同様、しばらく呆然と佇んでいた恵子さんが、やがて何かを吹っ切るように、ぷるぷると頭を振った。
「さあて、早く帰って、湯豆腐湯豆腐!」
見なかったことにしたらしい。
俺も見なかった。
「夕飯の前に、風呂でもいいなあ!」
絶対、なーんも見なかった。
この冬だけは、甘いホワイト・クリスマスやどーでもいい紅白やフヤけた新春番組の流れる中、浪漫チックに、でもちょっと、いやしこたま淫靡に、皮膚感あふれる新婚生活描写を繰り広げるのだ。
俺たちはなんの中身もない四方山話を明るく交わしながら、「なーんも見なかったもんね」「そうそう、ここは普通の私小説世界」と健気に確認し合いつつ、新居のマンションのエントランスをくぐった。
エレベーターのペンキもコテコテと塗り重ねられた古マンションだが、新居は見晴らしのいい最上階である。街道の南側はそのまま多摩川に下る傾斜地なので、たとえベランダの柵がやっぱり錆隠しの塗料まみれでも、奥多摩山塊を見晴るかす眺望だけは、超一級だ。俺はさっき遭遇したスラップスティック物件をなんとか記憶の底に沈めて、ベランダからの雪景色はさぞ浪漫チック、などと思いながら、扉のキーを回す恵子さんのやーらかそうな指を見つめた。
「……あら?」
鍵が開いている。
絶対に閉め忘れたはずはないのだが――ふたりして恐る恐る三和土に入ると、明るいルーム・ランプの下、ちっこい靴の群れが眼に入った。年季の入ったスニーカーは豪快に散らばり、ピンクの高そうなひと組はお行儀良くちょこなんと並び、またひと組はななめはすかいにポーズをとって、おジャ魔女どれみの笑顔を見せびらかしている。
恵子さんが、ふう、と溜息をついた。
俺も脱力しながら、お約束、という言葉の重さを、ずしりと背中に感じていた。
2DKの奥の六畳にまとめておいたはずの段ボール箱が、幾つかダイニング・キッチンまで運ばれているようだ。
シンクの上やテーブルの上に、その内容物がうずたかく積まれているのは、まあ子供なりに分類整理したつもりなのだろう。
しかし、なぜか侵入者たちの姿が見えない。開けられた段ボール箱が、なにやらよれよれに組み合わされて、壁際に細長い大箱を形成している。
――だ、段ボールハウス。
俺と恵子さんが思わず一歩引いていると、その段ボールの一部が扉のように開き、カップラーメンを抱えたくにこちゃんが首を出した。
「うっす」
なんということだ。俺たちの新居に、ろりが巣作りを始めている。
「おそかったな」
「……なんだ、これは」
「ふゆやすみ用の、べっ荘だ」
そう言えば、小学校はもう冬休みである。
俺はお約束を重ねる自分の立場にやや屈辱を覚えながら、やはりこう訊ねざるをえなかった。
「……どっから入った」
なんぼなんでも、マンションの最上階の窓まで、外壁をよじ登ってきたとは思えない。
「かんたんだ。かんりにんのおやじを、ゆうこが、たらしこんだ」
恵子さんがちょっと小首を傾げ、それから、あちゃー、と言うように額を打った。そう、管理人は恵子さんの職場を知っている。そして三浦家の超美幼女を知らない市民は、この町にほとんどいない。
段ボールの中から、くすんくすんとしゃくり上げる声が響いた。
「……ご、ごめんなさあい」
そんな声も、かすかに聞こえるようだ。
くにこちゃんはラーメンをすすりながら、
「ゆうこを、しかってはいけない」
もっともらしくうなずいて、カップを床に置くと、
「おもいついたのは、こいつだ」
くにこちゃんに襟首をつかまれ、たかちゃんが顔を出した。
「やっほー」
たかちゃんは、いつものちょんちょん頭の下に満面の笑みを浮かべ、
「んでも、ゆーこちゃんをおどしたの、くにこちゃん」
くにこちゃんは大真面目な顔で、またラーメンをすすりながら、
「ひとぎきのわるいことを、いうな。おれは、これからもおれたちとあそびたいなら、おとなしくゆーことをきけと、たのんだだけだ」
段ボールの奥からは、まだくすんくすんと可憐な泣き声が響いてくる。
満面の笑みと大真面目な顔で、イジメの罪のなすり合いをしている幼女たちに、俺は大人として、いったいどんな責を問えばいいのだろう。
そのとき、途方にくれている俺をよそに、
「さあて、じゃあ、みんなで湯豆腐にしましょうか!」
恵子さんが、からりと朗らかな声を上げた。
ろりたちも、ぞろぞろと段ボールハウスから這い出してくる。
「わーい! ゆどーふ、ゆどーふ!」
「おう、いいな。ゆきみゆどうふ。とても、ふーりゅーだ」
「……くすん、くすん」
俺は自分の未熟な性格を恥じると同時に、改めて自分の妻が賢明な大人であることを、快く痛感していた。
★ ★
他人の家にいきなり巣作りを始めるような無法ろりたちだが、無論それぞれに立派な、いや、なんだかかなり個性的な家庭がある。
俺と恵子さんはろりたちの家に電話を入れてから、本番の晩酌や夕飯は後でゆっくりやることにして、適当にろりたちの遊び心を満たしてやるため、おままごとのような湯豆腐をいっしょにつっついた。もっともくにこちゃんだけは、買い置き用の豆腐までぺろりと平らげてしまったが、家に帰る頃には消化してしまうだろう。
ろりたちも当座の好奇心は満たされたらしく、また泊まりこむ気も最初からなかったらしく、俺と恵子さんが家まで送ると言うと、すなおにきゃぴきゃぴと部屋から出てくれた。
仲良し三人組の中では、やはりいいとこのお嬢様であるゆうこちゃんの門限が、一番厳しい。恵子さんの職業上の義務もある。俺たちはとりあえずお屋敷を目ざして、雪の住宅街の坂を多摩川方向に下った。新居のマンションからだと、多摩川沿いの遊歩道を通ったほうが、屋敷への近道なのである。
坂を下る途中、見覚えのある一角を通る。
「おい、たかこ」
「ほーい」
「あすこ、おまいんちだろう。いっとー、むかしの」
くにこちゃんが指差したセコいツー・バイ・フォーをながめて、たかちゃんが嬉しそうにうなずいた。現在誰が住んでいるかは定かではないが、狭い敷地に安く再建された家屋は、昔住んでいた家と大差ないのだろう。
「うん。でもでも、いまのおうちのほうが、ずうっと、おっきいよ」
「たかこんちは、いいよなあ。つぶれるたんびに、でっかくなる」
「こくこく」
「また、なんべんもこわしたら、そのうち、ゆーこんちみたく、でっかくなるぞ」
たかちゃんのみならず、ゆうこちゃんまで真顔でうなずいている。
笑って聞き流すべきなのだろうが――俺はまた、少々不吉な予感に囚われた。
恵子さんと並び、ろりたちを引き連れて雪の町を歩く間は、それなりにまっとうな日常感覚に戻れていた。しかしこの『たかちゃんの家』という話題をほんの少し掘り下げてしまうと、先刻シェイクの屋台と出会った時のような、きわめて非常識な世界観が再浮上してしまうのである。
恐竜、海坊主、巨大軟体生物『どどんぱ』――。いやいや、そんなものが、この世に存在するはずがない。仲良し三人組と共に、それらの同類相手に何度か七転八倒してしまった俺が言うのもなんだが、いないだろう、普通、東京都青梅市の住宅街に、そーゆーイキモノは。お願いですからせめて今年いっぱいは出てこないでください。
俺は恵子さんの手を、思わず強く握りしめた。恵子さんも同じ気持ちなのだろう、小ぶりの手のひらで、けなげに握り返してきた。
しかし、運命の女神は弁天様のごとく嫁ぎ遅れて嫉妬深いのか、あるいはシリーズ物における不可避の『お約束』か。
多摩川沿いの遊歩道に入って間もなく、眼下の暗い河原から、なにやら殺気立った喧噪が、雪紛れに響いてきた。
「このやろう」
「ふてえガキだ」
「たたんじまえ」
「コンクリ履かしてフィヨルドに沈めたろか」
目を凝らせば、数個のでかくて異様な影が水際にわだかまり、よってたかって、ひとつの痩せこけた人影をフクロにしているようだ。それを遠巻きにしている影も少なくない。
酔っぱらいの喧嘩にしては、明らかに殺気が違う。ヤクザ屋さんのリンチ――それにしても、多摩川でも東京湾でも南港でもなく、フィヨルドとは。近頃は中国系だけでなく、北欧系マフィアも日本進出してきているのだろうか。
俺はとっさに恵子さんを背中に隠した。
くにこちゃんも、反射的にゆうこちゃんを背中に隠した。
しかしたかちゃんは、まじまじとその集団を見つめたのち、
「おう、くりすますくりすます」
などと嬉しそうにつぶやいて、止める間もなく、とととととと河原への斜面を駆け下って行く。
俺は慌てて恵子さんやろりたちを木陰に退け、たかちゃんを追って河原に走った。
本音を言えば、できればそーゆー荒事はこそこそ見て見ぬふりをして、通り過ぎたとたんに記憶から抹消して、早く家に帰って風呂に入って寝てしまいたい。いや、もう嫁がいるのだから、早く家に帰ってあんなことやそんなことをしたい。まあフクロにされているのが若い女性やろりだったら、あえて命を張るにやぶさかではないが、近づけば近づくほど、それは貧相な男がひいひいと情けなくいたぶられているだけで、ほどなく川で溺死しようがフィヨルドで凍死しようが、俺や世界に痛みは感じない。だから早めにたかちゃんを回収し、そのまんま逃げてしまいたかった。
しかし、そのとき――
「まて! たかこ!」
くにこちゃんが叫びながら、俺の頭上を、猿《ましら》のごとく跳び越えて行った。
そう、この戦闘的ろりが、そうした荒事を見逃すはずもない。
こうなると水際の連中も、さすがにこちらの存在に気づく。
くにこちゃんがたかちゃんに追いつくと同時に、その殺気立った一群はリンチを中断し、いっせいにこちらを振り向いた。
俺は焦ってろりたちの前に躍り出た。
「なんや、おっさん」
異形の影の中でもひときわ大きな影が、俺を睨め回した。
いかにもの凶眼である。
一対の枝分かれした巨大な角が、その頭頂に禍々しく揺れている。
「いらん怪我しとうなかったら、はよ、去《い》ねや」
そんな緊迫の展開をまったく無視して、
「やっほー! るどるふ!」
たかちゃんがひらひらと手を振った。
――まあ確かに、獣顔の真ん中あたりがとっても明るい、赤鼻のトナカイではあるのだけれど。
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