たかちゃんとさんた








     
【4】 なんかいろいろ


 たかちゃんのママは、駅前のスーパーと科学特捜隊極東支部の、掛け持ちパート主婦である。
 たかちゃんによると、今日はいつもなら科特隊でパートをやっているはずの曜日だが、この時期そっち方向は、なぜか暇なのだそうだ。まあ怪獣や怪人や宇宙人といった連中も、歳末はなにかと年間活動の後始末で忙しいのだろう。
 駅近くの住宅街に向かって街道をたどると、若サンタ率いるトナカイの群れは、さすがに人目を引いた。道行く幼年層は「あ、そろそろぷれぜんとのじゅんびをしてくれてるんだ」、そんな視線でわくわくと眺め、ちょっとひねた年頃の子供だと、「サンタってのは、やっぱり、いるのか? 自分の社会認識は、ちょっと俗事に過適応しすぎか?」、そんな顔をしている。また大人たちは、あくまで何かイベント関連物を見る目、あるいは仲良し三人組の前歴を多少なりとも知っているのか、過大な不安と期待が微妙に錯綜する、そんな目をしていた。
 やがて、たかちゃんの家――春に新築したという瀟洒な青い三角屋根が見えてきた頃、
「……ねえ」
 恵子さんがこっそり耳打ちしてきた。
「もしかしたら、だめかも」
 俺が「どうして?」と目で問うと、
「たかちゃんのママも、不動様と同じかもしれないわ。春に、あの桜さんを助けた時、そんなふうに言ってた気がするの」
「つまり例の裏技は、あくまで――」
「そう。『怪獣退治の専門家』」
 言われてみれば、もっともである。俺としては、あのママさんが例の公然の秘密状態、つまり「しゅわっち」状態に変身して助力してくれれば、灌漑用重機のみならず、もしかしたらぴこぴこハンマーの件まで、いっきに解決するかと期待していたのだが。
「……とにかく、訊くだけ訊いてみよう。世界平和だって、科特隊の広義の任務だし」
 恵子さんもうなずいた。
 いっそマイティジャックあたりでパートをやっててくれれば、用件が被って良かったのかもしれない。

 たかちゃんの新居の庭は、確かに以前の倍はあった。洋風のオリジナル設計家屋とあいまって、日本の中流家庭というより、軽井沢あたりの小洒落たペンションのようだ。
「ぴんぽーん! ただいまー!」
「はい、おかえりなさい」
 出迎えてくれたたかちゃんのママは、愛娘の背後にわだかまるトナカイの群れを見ても、まったく動じなかった。それどころか、頭目のルドルフに目を止めて、
「あら、お久しぶり」
 懐かしそうに目を細めた。
「あ、姐さん!」
 ルドルフは一尺ばかり飛び上がった。
「その節はどうもお世話になりっぱなしでご無沙汰しっぱなしでいやはやどうもなんとお詫びしていいやら」
 冬色の芝生に角をすりつけている。配下たちも同様だ。
「あらまあ、そんな、頭をお上げになって」
 おろおろと微笑するその上品な佇まいに、俺は寒気に似た畏敬を感じた。
「わーい! ママ、るどるふさんと、おしりあい?」
 驚くより先に瞬時に喜んでしまうたかちゃんも、なかなか怖い。
「え、ええ、ちょっと昔、北極のツンドラ地帯で……」
 ママさんはわけありげに言葉を濁した。そーゆー謎の母なのである。
「ゆうこちゃんちでは、おとなしくしてた?」
「うーんと……ふつーに、してたよ」
 たかちゃんの気を逸らす呼吸も、板についている。
「さあさあどうぞ、皆さん、お上がりになって」
 ぞろぞろと上がりこみながら、くにこちゃんがつぶやいた。
「おれはどーも、ちかごろ、あのおふくろさんが、おそれおおい」
 同感である。恵子さんもゆうこちゃんも、しみじみうなずいている。
「なつにおまいりした、たかさきの、大かんのん様のよーだ」
 たかちゃん家の間口は、トナカイの角も楽々通った。

 趣味のいい応接間でお茶を出され、昨日の夜はどうも貴子がお世話をおかけしてしまって、いえいえこちらこそなんのおかまいもできませんで、などとごく日常的な挨拶を交わしたのち、例の超非日常的相談の内、とりあえず砂漠物件について切り出すと、
「――ごめんなさいねえ」
 たかちゃんのママは、心苦しそうに頭を傾けた。
「ねえねえ、いこうよいこうよ。あらじんの、さばく」
 たかちゃんは、多摩動物園でもおねだりするノリでママを揺すっているが、
「ごめんね。ママのお仕事は、やっぱり、お相手がいないと駄目なの」
「おあいて、いるよ。えーとね、なんみんってゆう、こどもとか。いっぱいいるよ」
 ママさんは愛娘を、優しく、しかし哀しげにぽんぽんしながら、
「ごめんね、ママもなんとかしてあげたいんだけど――それは、ほかのおじさんやおばさんの、いいえ、世界中のみんながいっしょになってがんばらないと、いけないお仕事なのよ」
「ぶー」
 そう、たかちゃんがいくらフグになっても、光の国の戦士は人間が限界に挑んだ果てでないと、ベータカプセルもウルトラアイも使用できないのだ。それが唯一神教における『神の沈黙』にも似た、人類永遠の命題なのである。
 くにこちゃんが、なにか粛然とうなずいている。
 重苦しい沈黙の時が流れた。
 今回はいつになってもたかちゃんのフグが縮まらないので、ママさんはさすがに胸を痛めたようだった。天井を見上げながら、いや、たぶん屋根の彼方の空を見上げながら、じっと考えこんでいる。俺たちも言うべき言葉がない。
 と、ママさんの視線が、なぜか俺に下りてきた。
 頭のてっぺんから足の先まで、しげしげと値踏みするように眺め回している。
 俺が思わず顔を赤らめたからだろう、隣の恵子さんがちょっと殺気を帯びた。
「沖之司さん、とても良い体格でいらっしゃいますよねえ」
「は、はあ」
「ただのデブ――ごめんなさい、肥満体じゃなく、お相撲さんタイプとお見受けしますわ」
「え、ええ。けっこう物を持ち上げたり走ったりできますよ」
 アンコ型力士が本気で走る時のような恐るべき迫力はとても出ないが、それでも人並みの持久力はあるつもりだ。
「ただのおたく――ごめんなさい、上っ面だけの嗜好閉塞ともちがうと、おうかがいしているんですけど」
 たしかに、俺はおたくの定義にも厳しく生きてきたつもりだ。真のおたくとは理論に裏打ちされた実践である。たとえば、ろりのために死ねない男は断じてろり野郎ではない、そんな矜持である。
「もしかして、アトラクションのお仕事なんか――」
 俺は力いっぱいうなずいた。
「はい。学生時代、豊島園でひと夏、ケロニアやウーを」
 夏の屋外アトラクのバイトは、心身ともにおたくを磨く道場である。一日三キロずつ痩せていくのだ。
「それでは、最後に、質問です」
「は、はい」
「水の無い砂漠地帯に出現した場合、もっとも始末に困る怪獣は?」
「え、えーと――メジャーなところでは――ジャミラでしょうか。あるいは、バルゴンなども。どちらも弱点は、ただの水ですから」
「ぴんぽーん」
 おう、正解だ。ウルトラ関係の方に認められて、俺はときめいた。
「……失礼」
 たかちゃんのママは軽くつぶやいて、なぜか携帯を取り出した。
「――あ、ご無沙汰いたしております。青梅の片桐でございます。はい。いえいえ、そんな、とんでもない。本当につまらない物で、あいすいません。ところでモロボシさん、あなたのお家に、たしか、予備のカプセルが残っておりましたわねえ。ええ、ええ、収容設定が未設定の。まことに申し訳ないんですけれど、そちら、しばらくお借りできませんかしら。はいはい。いえいえとんでもない。これから伺いますわ。いえそんな、お気をお使いにならないで――あら、アンヌさんが明日吉祥寺に? それはそれは」
 賑やかな通話中、ピンクの携帯のキティちゃんが一生懸命光ったりしているのは、母娘共通の趣味なのだろうか。
「――あーらお久しぶり! おほほほほほほ! あなたなんで鎌倉から吉祥寺なんかに? あらあら、若いわねえ。ホントに隅に置けないこと。じゃあ、あの小劇場ね。十時半開演――良かった。ええ、間に合うわ。はーい、じゃあ、明日ねー。…………ぽち、と」
 たかちゃんのママは携帯を閉じ、俺に向かってにっこりと頬笑んだ。
「ちょっと体型はアレですけれど――あなた、ジャミラでお願いしますね」
 は?
 俺だけでなく、ママさん以外の全員がきょとんとしている中、ママさんはたかちゃんのおつむをくりくり撫でながら、満面の笑みを浮かべた。
「明日のクリスマス・イブに、その砂漠にジャミラが出現します。ジャミラという怪獣は、もとは地球から見捨てられた宇宙飛行士の方が変身したもので、それはもう前途をはかなんでおりますから、やけくそでゲリラのアジトやら多国籍軍のキャンプなどを、見境無く踏み荒らしてしまいます。当然科特隊が出動しますが、当然通常の攻撃では退治できません。ジャミラさんは灼熱の惑星で鍛えぬいておりますから、大量破壊兵器だって平気ですもの。唯一の弱点は――」
 そう、その異星に無かった、ただの『水』なのである。体長に見合った、大量の水。
「――そこに、アレが出現します。ハヤタさんが現役の頃ですと、お手々から放水車のようにお水なんか出せたわけですが、残念ながら現在のアレには、そんなご都合技は使えないんです。ですから、どこかでジャミラさんの脚あたりにダメージを与え、動きを止めるのが、せいいっぱいですわね。当然、その付近に急遽大量のお水が必要になります。人工降雨や給水車くらいでは、とても足りません。つまり河川からの灌漑設備が必要になります。そのときアレが設備一式運んでくれば――きっとゲリラの皆さんも多国籍軍の皆さんも、総出で敷設してくださいますわ」
 う、ウルトラ八百長試合。
 つまり俺は、あのカプセル怪獣収容器(兼・シリーズによってなんでもありカプセル)でこっそり怪獣化し、砂漠でウルトラママと出来試合を繰り広げるのである。
 恵子さんが必死になって、俺の見えないあたりの袖をつんつん引っぱっている。それが俺の身を案じてくれてか、ナイス・バディーなウルトラママと組んず解れつするのを妬いてかは知らず、俺はもう反射的に、激しくこくこくとうなずいてしまっていた。
 それは天地神明にかけて、邪念によるものではない。元祖ウルトラ怪獣世代なら、きっと解ってくれるはずだ。俺たちは女子のふくらみかけた胸や尻に邪念を抱くより遙か昔から、そしてウルトラマンやマグマ大使そのものよりも、実は『怪獣になりたかった』のである。

 とにかくこれで、くにこちゃんのリクエスト物件も、無事配送の目処が立った。細々としたスケジュールは、たかちゃんのママに任せるしかない。
 その日の昼食もママさんが出してくれることになり、俺たちは恐縮しながらも、お手製の秘伝の炒飯をおいしくいただきながら、最後の問題に移った。最大の難関――ゆうこちゃんのリクエスト『天使のハンマー』をいかに駆使するか、である。
「肝腎の天使が届いていない以上――自力でぴこぴこしろ、と言うことなんだろうなあ」
 俺が言うと、
「イブになったら、来てくれるんじゃないかしら?」
 恵子さんが楽観論を述べた。
「……しかし、もし、来てくれなかったら。つまり、一番偉い人が、まだ斑《まだら》ボケだったら」
 若サンタが悲観論を述べた。
「やっぱり、そのハンマーも、ほっとくと翌朝には消えてしまうの?」
 たかちゃんのママが、ルドルフに訊ねた。
「まあ、昔の決まりどおりなら、十中八九、それっきりですわ。いっそ――」
 心苦しそうに話を続けるルドルフを、俺は目線で制した。
 そう、『自分のためにそういう物が欲しい』とだけ手紙に書けば、その効果は恒久的だったのかも知れない。ストーリー込みの絵本仕立てであったことが、かえって仇になっているのだ。しかしこの無邪気な三人組に、そんな事情まで諭す気はない。
「――やっぱり、消えちまうでしょうなあ」
 ルドルフも長く生きているだけあって、俺の目線を悟ってくれた。
「ねえねえ」
 たかちゃんが、くにこちゃんとゆうこちゃんを呼んだ。
 なにやらごしょごしょ相談し、
「どっこいしょ」
 テーブルの上によじ登る。
 そして、三者三様、びしっと思い思いのポーズをキメて、
「へんーしん!」
 俺はまだ見たことがないが、前の冬に出現したと言う噂の美幼女戦士を、再現するつもりらしい。自分たちで天使の役をやるつもりなのだろう。
「…………」
「…………」
「…………」
 約三十秒、静止沈黙したまま、お互いお目々だけできょときょとと確認し合ったのち、
「……しっぱい、しました」
 たかちゃんが代表で頭を下げた。
 ママさんがよしよしと頭をなでた。
「いいのよ。あれはねえ、たまたま、福引きの大当たりみたいなものだから、もう無理だわ」
 なにか大宇宙規模のラッキーセブンだったと聞くから、一生に一度くらいの確率なのだろう。あるいは三人がそろって七十七歳になったら、美老婆戦士に変身できるのかもしれない。
「とにかく、そのハンマーや配送先リストが見たいわね。それから、お空に送った絵本。実際、どんな話を書いて、どんなお絵描きだったのか」
 恵子さんとゆうこちゃんが、顔を見合わせた。
「あのとき、練習で描いたのが、たくさんあったわよね」
「……ぽ。……つくえの、なか」
 
     ★         ★

 恵子さんとゆうこちゃんが絵本の下書きを取りにお屋敷に戻り、たかちゃんのママは例の八百長をスムーズに成立させるためになんかいろいろ根回し(と、たかちゃんの着替えやら何やら)、そんなこんなで、とりあえず俺たちは四手に別れた。いずれあの廃工場に集う約束である。たかちゃんのママは、例の灌漑用機材一式も、見ておかねばならない。
 若サンタとトナカイには先に帰ってもらい、俺はくにこちゃんを連れて長岡履物店に向かった。超強化ろりとはいえ、弱冠八歳の女児を、ただ電話だけ入れて連れ回し続けるわけにはいかない。
 幸いたかちゃんのママも長岡家に連絡してくれたおかげで、俺は幼児連れ回し犯的な処遇は受けず、くにこちゃんとお母さんが奥でなんかいろいろやっている間に、居間の炬燵でともこちゃんと親交を深めた。
 ともこちゃんはさっそく俺の膝をおしっこで濡らし、烈火のごとく泣き始めたが、あくまで濡らす前は笑っていたから、俺が嫌われたわけではないだろう。今どきパンパース類でなく布おむつというのも、世のヤンママなどは目を顰めそうだが、本当は乳児のためにはその方が自然なのである。勝手に放尿して勝手に泣くのが乳児本来の仕事で、それを始末しながら優しくいじくりまわしてやるのが親の仕事だ。俺は親ではないが、忙しそうなお母さんに頼まれてともこちゃんのおしめを替えてやり、ついでにこっそりあちこちいじくりまわした。
 濡れたおむつをはずしてやった時点で、ともこちゃんはもう笑っていた。とてもかわいい。生後一年もたっていないはずなのに、金太郎のようにでかい。さすがにくにこちゃんの妹である。赤ん坊なので当然あそこはつるりとふくよか、ありきたりの表現だが桃の割れ目のようである。三年前の俺だったら、思わず欲情していたかもしれない。
 しかしたかちゃんたちに鍛えられてか、あるいはここ一年ほどの恵子さんの存在が抑止力になってか、俺は欲情する代わりに、大昔おしめを替えたり風呂に入れるのを手伝ったりした、寝たきりの祖母を思い出していた。

 子供の頃――あの奥羽の片田舎。
 正直、動ける間の祖母を、俺は心底嫌っていた。憎悪していた、と言ってもいい。長男の嫁、つまり俺の母親をさんざ理不尽にいびり尽くし、内孫の俺にも小遣いひとつくれたことがなく、分家夫婦や外孫が里帰りしてきた時だけ、別人のように『優しい祖母』になった。つまり家内の人間にとってはまったくの夜叉、外面《そとづら》だけは菩薩、そんな完全多重人格状態だったのである。だから、祖母の体と頭が一度に破綻し、無様な寝たきり痴呆老人になった時、俺は天罰が下ったのだと小気味よくさえ思った。しかし、その天罰は、同時に俺たちをも直撃した。寝たきりの痴呆老人――それは体重何十キロの巨大な赤子だったのである。これから育つのではなく、ただ朽ちてゆくだけの。
 それから数年、祖母は寝床の上で生き続けた。昼夜を問わず好きなだけ泣きわめいた。赤子と違うところは、その泣き声に、ときおり日本語として言霊を伴ってしまう異常な悪態あるいは哀訴が入れ替わり混じる点、そしてその重量である。山家ゆえ両親は共に森や畑で働いていたから、いきおい俺もおむつや風呂の世話を分担させられた。おむつは臭くて汚い。そして昔の鉄砲風呂――内蔵の鉄釜で湯を沸かす木製丸風呂桶は、かなり狭くて底深なので、介護入浴には最悪だ。親父がこの厄介なしろものを後生大事に世話し続けるのは自分の親だから仕方ないにしても、なぜ母はあれだけいびり尽くされたこれを風呂に沈めてしまわないのか、俺は不思議でならなかった。
 そして数年後のある冬の夜――確かちょうど今頃の時期――母親と俺が風呂に入れてやっていると、直前まで意味不明の怒声を上げていたその祖母が、突然おとなしくなり、やがて蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「……ありがとう」
 見ると、湯気に霞む祖母は安らかな半眼で、裏の古寺にある阿弥陀様のような顔をしていた。
 俺はその単語を、高校生になったその時まで一度も祖母の口から聞いたことがなかったから、驚くと言うより、ただ頭の中が白くなった。
 母はくぐもった声で泣いていた。
 それから俺も泣いてしまったのだけれど、祖母の言葉に泣いたと言うより、母の涙に泣いたのだと思う。
 そのとき湯船の中に見えた祖母の性器は、白毛まですっかり抜けてしまい、赤ん坊のようにすべすべしていた。毎日風呂に入れているから、けして汚れてもいなかった。寝たきりでもきちんと物を食わせいるから、痩せてもいなかった。むしろ俺がそれを女の性器と認識しなくなった数年前よりも皺が少なく、赤ん坊のような肌色に戻っていた。
 そう、今、炬燵の上から俺を見上げてきゃっきゃと笑っている、ともこちゃんのように。
 祖母はその年の大晦日を待たずに、息を引き取った。
 そしてともこちゃんは、これからいよいよ元気に育っていく。
 しかし俺の耳に、あの時の祖母の言葉とともこちゃんの笑い声が同じものと聞こえ、あの時の祖母の顔と今のともこちゃんの笑顔が同じものと見えるのは、ただの感傷だろうか。

「ちゃんと、やさあしく、ふいてやっただろーな」
 いつの間にか、着替えたくにこちゃんが横にしゃがんでいた。
「あかんぼのおはだは、とっても、でりけーとなのだ」
 俺は安心しろと言う代わりに、笑って天瓜粉のパフを上げてみせた。

     ★         ★

 お母さんの了承を得て、またくにこちゃんと連れだって街道に出ると、くにこちゃんが言い出した。
「おい、かばうま。ちょっと、えきまえに、よっていいか?」
 さほど遠回りではないし、時間もまだある。
「おう、なんか食いたいものでもあるか?」
「けんた! ……いや、ちがう」
 力いっぱい喜んだ直後、いきなりむくれた。
「……おまい、おれを、すっげーはらへらしだと、おもっているな?」
 おお、この無敵ろりも、恥じらいというものを覚え始めたのだろうか。
「おししょーさんに、あうのだ」
 くにこちゃんは、なにやら思い詰めた顔で言った。
「……このまんまじゃ、くやしい。おれのでばんが、ない」
 よほどイブのサンタ活動に貢献したいのだろう。
「でも、あの機械を用意しただけで、俺はすごく偉いと思うぞ」
 甘やかしではなく、心底の賞賛である。
「……んでも、やっぱし、くやしい。せめて、おれの、りくえすとだけでもな」
 まあその侠気《おとこぎ》を認めてやるのも、やぶさかではない。
「……んで、けんたっきーで、いいぞ」
 その食欲も、認めるにやぶさかではない。初めて会った日のような高級寿司は、懐の苦しい現在、ちょっとパスだが。

 街道を少し逆行して駅前のロータリーに出ると、くにこちゃんの言った意味が解った。
 歳末らしい種々の募金運動や救世軍の社会鍋の喧噪からちょっと離れて、街灯の下に、墨染めの托鉢姿が佇んでいる。あまりに死灰のごとく気配が薄いので、くにこちゃんが教えてくれなかったら、気にも止めなかっただろう。
 老僧はくにこちゃんの気配に気づいたのか、深編笠を上げて柔和に微笑した。
「おう、邦念か」
 くにこちゃんの修行名は、邦念というらしい。
 俺は何度かその寺にも参拝したことがあり、住職の顔にも馴染みがあった。しかし、老僧はすでに紫の衣の大僧正であり、真言宗の重鎮であると聞く。今さら寒風の中で托鉢に回る立場とは思えない。そもそも托鉢という行為自体、今の日本では、なんじゃやら七面倒な届けを出さないと違法なのである。
「そちらのお方は――何度か境内でお会いしましたな」
「はい」
 この老僧と話すときは、自然、頭が垂れてくる。
「もしや、邦念の言う『かばうま』さんでは」
「はい」
 老僧の顔の皺がますます柔和に波打った。
「この寒空に、立ち話も、なんですな」
 老僧は背後を見返って、
「邦念のことじゃから、あすこが良かろう」
 すたすたとカーネル・サンダースの店に歩き始めた。

 ケンタのテーブルに座ってチキンを食う托鉢僧というのは、かなり変である。
 しかし笠を外した老僧は、がふがふと二人前の特盛りセットを食らうくにこちゃんをにこにこ眺めながら、自分も一ピースのウィングを悠々と囓り、旨そうにコーヒーを啜っている。俺もポテトをお相伴にあずかった。
「――ほーゆー、わけなのら」
 くにこちゃんは食ってるんだか説明してるんだか判らない状態で、
「おししょー。みょーおーたち、使ってもいいよな」
 老僧はあいかわらず微笑しながら、
「おそらく、いくら真言を唱えても、現れまいよ」
 くにこちゃんは、あからさまにご機嫌斜めの顔になった。
 俺としても、今回の事態であの不動明王や孔雀明王なら、ぜひ助力を乞いたい。ジャミラ化するのもけしてやぶさかではないが、仏様の仲間なら、もっとこっそり穏便に、なんかいろいろ出来そうな気がする。
「やはり、それは宗教的な――失礼ですが、縄張りの違いなのでしょうか」
 老僧はティッシュで指の脂を拭いながら、
「神と言えば神、仏と言えば仏、所詮信じる者の心ひとつ――そんなことを、申しますな」
「はい」
「確かに、大元の『仏』はひとつであろうと、私も考えております。モーゼ、キリスト、マホメッド等が唯一神と信じたもの――エホバあるいはアラー――それらのいずれもが、根源的には『仏』に通じているのでしょう。しかし、『仏』への道はあまりに険しい。私も七十年求め続けましたが、なお解らない。先達が何代も修行を重ね、なお種々の惑いに隘路を重ねている。それほどの険しい道を、人は歩まねばならない。そう、たとえば、一匹の蟻がヒマラヤの最高峰の頂きに昇らねばならない。行きたくなければ、行かないで済むというものではない。森羅万象のすべてが、すでにそうした存在なのです。数億年か数十億年か、あるいは数百億年を越すのか――そんな途方もなく長く険しい山道を、いつかは届く『仏』の座をめざして、一歩一歩登らねばならないのです」
「は、はい」
「あなた、己が生涯そんな登山の途上にあることに、耐えられますか?」
「えーと、まあ――私はとても楽観的なたちなので」
 老僧はおかしそうに笑った。
「なるほど、邦念がなつくのも、無理がない」
「べつに、なついては、いないぞ」
 くにこちゃんがきっぱりと言った。
「おやつを、もらうだけだ」
 老僧は愉快そうにうなずいて、話を続けた。
「しかしまあ、世の誰もが、そんな登山に耐えられるものではありません。道にも迷えば、逃げ出しもする」
「はい」
「そこで、『騙し』が要るのですよ」
「……だます、のですか?」
「はい。向かわねばならぬのがヒマラヤの最高峰ではなく、たとえば富士山であるとか、愛宕山であるとか、あるいは上野のお山であるとか。それならば、まあ登り続けようという気にもなる。そのために存在を許されているのが、まあ、いわゆるキリストやマホメッドの教えなのでしょう」
 もはやローマ法王のプッツンどころか、中近東から刺客が飛んで来そうな話だ。
「あなたは口の堅いお方だそうだから、言ってしまいましょう。私は、お釈迦様や御大師様も、そのための存在ではないかと、近頃推測しております」
 おお、ついに総本山金剛峯寺にまで仏罰を食らいそうな話になってしまった。
「――内緒ですよ。もしあなたが、私がこんなことを言ったなぞと本山にチクりでもしたら、私はきれいさっぱり、しらばっくれますからな」
 悪戯っぽく笑われてしまうと、もう冗談なのか本気なのか分別がつかない。
「あにをゆってんらか、ちっとも、わかんらいぞ」
 くにこちゃんが、数本目のチキンを囓りながら言った。
「やっぱりクリスマスは、仏様の管轄じゃないんだってさ」
 俺はなるべく軽く言ってやった。
「大丈夫。あの機械は、俺が死んでもなんとかしてやる」
 くにこちゃんは、不承不承うなずいた。お師匠様に直談判できたので、あきらめがついたのだろう。
 老僧は水のような顔で、ガラス越しに見える駅前のロータリーを見返った。
「あれらも、こう言ってはかわいそうですが、所詮『騙し』なのですよ」
 募金活動の群れを言っているらしい。
「僅かな小銭と小さな見栄を、『上』から『下』へ、恵んでやる仲介に過ぎない」
 これには、脳天気な俺もちょっと引っかかった。
「それは確かに雀の涙かもしれないですが――たとえ『騙し』にせよ、日本円一円で救われる命は、この世界に必ずあるはずだ」
 老僧は動じなかった。
「それは、『放下』ではないのです。己の懐が痛まない程度に、哀れなどこかの誰かを救ってやっても、仏への道には繋がらない。己と他人を等しくする、いや、己はあってない、森羅万象すべてが己であり同時に他者でもある――それが『法身仏』――いずれ到達する仏の本態であると、私は思っております」
 くにこちゃんがこくこくとうなずいた。
「なあるほど、そいで、おししょーさまは、いちもんなしなのだな」
「一文無し?」
 俺が驚くと、
「そうだ。りっぱなてらも、でっかいとちも、みーんなほんざんから、かりている。んでも、やねのしゅーりとか、いろんなかかりは、こっちもちだ。おふせやかいみょう代は、ぜーんぶそっちにまわる」
 てっきり坊主丸儲けで、少なくとも生活に不自由はないと思っていた。
「んでも、おれのみるところ」
 くにこちゃんは続けた。
「おししょーさんは、たぶん、ほんこの『たくはつ』をするために、わざわざ、ふつーにかねのあるふりをしているのだ」
 残念ながら、くにこちゃんが理解しているらしいことを、無学な俗人の俺は理解できない。
 首をひねる俺を見て、老僧は言った。
「私が、何に見えますかな? いや、あの街灯の下に立っていた姿です。あなたが私の寺や、普段の僧衣姿を知らないとして、です」
「……ただのお坊さん……としか、言いようがありませんね」
 俺は正直に言った。
 ケンタのチキンを食っている今はともかく、さっきの姿はそうだった。編笠を被って顔を伏せてしまうと、年寄りだということもわからない。托鉢姿の僧衣は貧弱でも華麗でもなく、寒そうでも暖かそうでもない。言ってしまえば、ただの僧形の置物である。
「それでも朝から立っておりますと、ふたりのお方から、喜捨をいただきました。その方々は、私を憐れんでくださったのですかな? それともどこぞの学会のように、浄財を積めば御利益があると、有り難がってくださったのですかな?」
「なんとなく気が向いた――そんなところでしょうか。あるいは、ただ、仏教好きであるとか」
「どっちでも、いいのだ」
 くにこちゃんが言った。
「そいつらは、かねを、ただですててくれたのだからな」
 金銭《かね》――近代における見栄や物欲の凝り――近代における『上』と『下』。
「ちょっとでも、ほとけさまに、ちかづくぞ」
 なんとなく、ふたりの言わんとするところが解った気がした。つまり僧自身が仏に近づくためではなく、他人を仏に近づけるための行為が『托鉢』なのである。で、仏教的概念においてもともと自分と他人は等価のものだから、結局、自分も他人も含めた社会の総体を、仏に近づけることにもなる。物理的利害や精神的利害の関わらない純粋な『無私』、それが仏だからだ。
 なんのかんの言いつつ、この子に不動明王たちがタメ口でつきあう理由が、解ったような気もした。

 これも『捨てる』ことになるのかな、などと皮算用をしながら、チキンの勘定は結局俺が持ち、俺たちはロータリーに戻った。
 老僧は軽く会釈をして、街灯の下に戻って行く。
「さあて、残る難問は、天使のハンマーだけか」
「んむ。おれも、そっちでなんか、がんばろう」
 連れだってあの廃工場に向かおうとする俺たちに、後ろから声がかかった。
「今、天使とおっしゃいましたかな?」
 老僧が振り向いていた。
「は、はあ」
「ゆうこの、りくえすとなのだ。てんしのハンマー」
 老僧は口の中で、『天使のハンマー』と小さく反復した。
「――それが何かは解りませんが、詳しく、お聞かせ願いたいですな」
「しかし、クリスマスは、管轄外と」
「クリスマスはどうでも、『天使』は、キリスト様の専売特許ではありませんぞ」
 老僧の細い目は、皺の奥で光っていた。
「むしろそれ以前の、多神教から派生したものとも言われております。仏の道も、見ようによっては、無慮数の神への道なのですぞ」






                     
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